2014年12月11日木曜日

教会で「訓練」に疲れてしまった方へ

 先日いただいたコメントへのお返事もかねて、この記事を書きたい。
 コメントにはコメントで返すべきかもしれないけれど、大変考えさせられたし、必要性の高い内容でもあると思うので、こういう形にさせていただいた。

 そのコメントはこちら(2014年12月9日・匿名様より)。

「最近教会の奉仕、また訓練とか成長とかいう言葉に苦しさを感じます。
 自分は真の自由を求めていますが、何か教会では不自由を味わいます。
 自分ではどうにもならない問題を抱えて教会に通うことになったのですが、教会でも悩みを抱えるとは。
 強いられて奉仕するのではないのですが、(中略)暗黙の上で奉仕せざるを得ません。
 何の為に教会に行くのか?
 訓練と言われると心底から違和感を覚えます。」

 たぶん、クリスチャンは訓練されて成長せねばならない、その為にも奉仕は必要だ、みたいな話を教会でされたのだと思う。

 何かで困っている人が、キリスト教についてあまり知らないまま、助けを期待して教会のドアを叩く。そして福音を聞いて心が休まり、皆が自分を快く受け入れてくれることもあって、この神様と共に生きていきたい、と願うようになる(人もいる)。それで信仰告白とか洗礼とか、一連の流れを幸せに踏む。しかし教会生活を始めると、とたんに状況が変わる。成長のための訓練、そして訓練のための奉仕、が始まるのである。
成長するのが義務だから」とか言われると、クリスチャンになったばかりの人には断る術がない。

 そこにはコメント者様が書いているように、「教会とは何か」という問題がある。
 細かい定義は定義屋さんにヨソでやってもらうとして、一般的な(特に未信者が持つ)教会のイメージには「癒し」とか「神聖さ」があると思う。けれど上記のような教会(たぶん聖霊派か福音派の一部?)の実際は、「奉仕、訓練、成長」である。

 その主張はこんな感じだ。
「クリスチャンはせっかく神様に救われたのだから、その神様に仕え、人々にも仕え、神の国(教会)を拡大する義務がある。だから礼拝を充実させ、熱心に伝道し、慈善事業とか音楽活動とか、その他諸々の奉仕活動に従事する中で、スキルを磨き、成長していくのだ」
 そのわかりやすい例として、「教会は客船でなく戦艦だ」みたいな言葉がある。つまり、役に立たない人間は要らない、いるなら何かしろ、ということだ。

 それは確かに正論かもしれない。「癒し」を求める人々が(言葉は悪いけれど)傷を舐め合うだけなら、べつに教会である必要はない。同じような悩みを持つ人のコミュニティに行けば事足りる(むしろ悩みが特殊であればあるほど、教会では事足りなくなる)。
 教会であれば、たとえば礼拝という活動がある。そしてみんなで一緒に礼拝するなら、何かしらの奉仕が必要になる。全員でないにしても、誰かが何かしなければならない。そういう意味で、奉仕は不可欠だ。

 けれど、そこに「成長しなければならない」が結びつくのは強引な話だ。成長そのものは良いことだし、望ましいことだと思うけれど、それが事実上強制されるのは違う。
 聖書には確かに「義の訓練」とか「矯正」、「成長」という言葉が出てくる。その方向性は必要だろう。けれど、少なくとも教会での物理的な奉仕(奏楽とかその他イロイロ)は、そういう成長に直結していない。むしろ関係ないとさえ言える。長年そういう奉仕に身を置いた人が(特に霊的とされてきた人が)大勢、不品行で姿を消してきた。そういうのを見れば、全然「成長」していないのは明らかだ(「霊的訓練」を称する人たちも同様である)。

 だから「訓練」とか「成長」とかを標榜する牧師やリーダー自身がどれだけ成長しているのか、よく見るべきであろう。ちゃんと聖書に従っている人なら、どんな形であれ他人に強制などしない。事実上の強制となるような状況にもしない。

 だいいち、そう難しく考えなくても、何かを強制されるような状況はストレスでしかない。そしてストレスしかもたらさないなら、宗教であれ何であれ不要だ。どんなに理屈をこねても結局強制的な状況に持って行くのであれば、それはキリスト教ではない。キリストを騙った別の宗教である。

 というのが冒頭のコメントに対する私の返事でもあって、だからコメント者様には、その生活を続けるべきかどうか、よくよく考えていただきたいと思う。どこか他の教会をイロイロ見てみるのも、参考になって良いかもしれない。悩みが解決することを、心から願っている。

1 件のコメント:

  1. 成長成長と一口に言いますが、それは具体的にどういったことをさすのでしょうか?と聞きたくなることがよくあります。自分が考えている「成長」と向こうが考えている「成長」が全く違ったものであった場合、双方にとって悲劇が起こります。
    新興宗教系のプロテスタントで「成長」というものは、しばしば教会成長と関連させたような感じで語られることがよくあるように思います。たとえば創価学会ではありませんが、かなり強引な折伏(あえて勧誘という言葉を使いたくない)をしてでも新しい人をつれて来るとか、収入の一割を献金するとかです。とにかく数字に出るものでその人の信仰が成長しているかいないかを判定するのです。逆に言えば数字にあらわれないものは信仰を測定するバロメーターにはならないということです。
    アガペーの概念を正しく理解して実践しても、そのようなことは数字に表れ出てくるものではないということで、全然評価をされることはありません。

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