「イエス様のマジな弟子」って何なのだろう・その2

2014年12月26日金曜日

「弟子訓練」の問題

t f B! P L
 一部の教会が推進している「弟子訓練」について。2回目。
 
「イエス様のマジな弟子」を作りたいと言って徹底的に訓練した結果、牧師の言いなりの弟子、牧師の言うことしか聞かない弟子に仕上がっている。としたらそれはキリストの弟子でなく、「イエス様のため」でもない。牧師の弟子であり、牧師のためだ(かつそれは偶然の結果ではない)。
 というのが前回のまとめ。
 
 弟子訓練をやる教会は、基本的に信徒は全員弟子である。弟子訓練がその教会の「DNA」だからだそうだ(そういえば若手牧師は「教会のDNA」という言葉を好んで使う)。
 と言っても全員同列の弟子でなく、何となく序列みたいなものがある。新しい信徒は一番下位の弟子で、それを教える先輩弟子がいて、さらにその先輩を教える大先輩もいて、またその上もいて・・・みたいな一種のヒエラルキーになっている。
 
 その教会に長くいれば、自然と後輩弟子を指導するようになり、必然的に自分が先輩弟子になる(よっぽど問題アリなことをしなければ)。さらに長くいると、あるグループのリーダーとか、ある奉仕の責任者とかになる。ヒエラルキーを徐々に上っていく感じだ。
 
 その弟子訓練のゴールが何なのかよくわからないけれど、一つのコースとしては、
 
①働きながら弟子訓練を受ける

②パートタイムの教会スタッフになる(仕事を少し減らす)

③フルタイムの教会スタッフになる(仕事を辞める)

④伝道師、インターン、牧師見習い、みたいな存在になる

⑤牧師になる(?)
 
 というのがある。
 ちなみに最後の「牧師」というのは、こういう教会の場合、神学校卒業とかでなく、いわゆる「教会認定」みたいな形で就任することが多い(こういう牧師が外部で牧師を名乗ったら身分詐称になる気がするけれど、どうなのだろうか)。
 
 この「献身コース」を歩むことは、教会内では価値あることとされている。憧れる若者も少なくない。神に特別に選ばれた者、召しのある者、霊的な者、と評されるからだ。そして最終的に枝教会の牧師なんかに任命されると、一番トップである主任牧師から物理的に離れるので、今度は自分がヒエラルキーのトップの座に着く。そして新たなヒエラルキーを構成していく。
 
 そんな風にして、ヒエラルキー化した「弟子組織」が教会内で形成されていく訳である。そこでは献身する者ほど、上位に上っていく。そして上位の者ほど特別扱いされ、発言力が増す。
 
 と、いうのが「弟子訓練」を実践する教会の実態である。多少の差はあれ、本質は同じはずだ。そして「イエス様のマジな弟子」というのは、これを上り詰めていく人のことを指している。
 
 その構造自体は問題ないかもしれないし、教会の政治形態の一つとしてアリかもしれない。
 けれど明確な上下関係ができることで、危険性が高まるのは否めない。たとえば下位の者は上位の者に逆らえない、どんなことにも従順しなければならない、上位の者の「啓示」の方が重視される、上位の者はいつも(どんなに間違えても)正しい、等の危険性だ。
 一歩間違えば、とんでもないことになりそうである。
 
 またヒエラルキー化することで上下関係や序列が発生するのは、結局のところ一般社会の多くの組織と同じではないか。頑張った者、認められた者、気に入られた者、影響力のある者が「出世」していく訳で、「上に立ちたい者は皆に仕えなさい」という聖書の言葉を実現するものではない。
 だからそういう「弟子訓練教会」でどれだけ聖書を実践できるのか、私は大いに疑問である。

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