クリスチャンと「常識」について

2014年12月2日火曜日

クリスチャンと「常識」

t f B! P L
 先日投稿した連載小説『キマジメくんのクリスチャン生活』第48話にも描いたけれど、クリスチャンと「常識」との関係は、よくよく考えなければならないトピックだと思う。

「信仰は常識を超える」とか「信仰は常識に縛られない」とか言う牧師がいる。その根拠として、たとえば「宮きよめ」の箇所とか、屋根を壊して病人をキリストのもとに釣り下ろした箇所とか、そういう「過激」と思われる聖書箇所を取り上げる。そして結論として、「イエス様はいわゆる過激派だった」「プロテストとは反抗を意味する」「だからクリスチャンはこの世の常識に縛られてはいけない」という話に持っていく。

 もっともらしく聞こえる話で、信じる人も多かった。だからその教会全体が一般常識を軽視する方向に流れるのも無理はない。
「10月携挙説」を主張した人もこれと同類だと思う。人間として当たり前の常識が通用しない。この人の場合は「間違ったら謝る」という当然の礼儀を無視している。「愛は礼儀に反することをせず・・・」という第一コリント13章をどう解釈しているのか知らないけれど。

 前述の牧師は「過激派クリスチャン」なんて言葉を使っていた。と言ってもテロ行為に及ぶ訳でない。せいぜい広報活動禁止の場所で勝手に伝道するとか、高速道路を160キロで走って奉仕先に向かうとか、交通取り締まりの警察官に暴言を吐くとか、その程度だ。過激とか言う割に、やることは小さい。

 そういう人たちは「神のために」時には常識を無視しなければならない、と主張する。人にどう見られるかより、神にどう見られるかの方が大切だ、という訳だ。それで「神のために」禁止場所で伝道し、法定速度を破り、それを止める警察に抗うのである。それでも「神のために犠牲になっている忠実で敬虔な僕」みたいにも見えるからか、盲信的な人たちには受けが良く、「すばらしい神の器だ」という評価になる。

 けれどそういう牧師なり教会なりは、常識無視がほとんど日常的な感覚になっている。夜間に礼拝で騒音を出すのもお構いなしで、近隣からクレームが来ても「神のための礼拝だ」と言い張る。教会として利用する業者(たとえば不動産屋とか印刷屋とか看板屋とか)にはあり得ないレベルの値下げとか、納期短縮とかを要求して、ほとんど脅しの域だ。そういうイロイロを全部「神のため」というベールで覆い、「だから仕方がない」で片付けている。神様としては、とんだ迷惑ではないだろうか。

 もちろん、時には常識か否かで決められないこともあるだろう。たとえば、病院でまさに死を迎えようとしている未信者の患者さんがいるとする。そこにクリスチャンの看護師がいて、たまたま福音を耳元でささやける機会があるとする。この機会を逃したら、おそらくもう次はない。けれど職務中の宗教行為禁止というルールに従って、黙っているべきかどうか。ルールを守るべきという常識に対して、疑問を抱く瞬間ではないかと思う。

 だから一概に「常識無視」がいけないとも言えない。けれど少なくとも、何でもかんでも常識無視がまかり通ると考えるべきではないだろう。

「宮きよめ」をしたキリストが、普段から暴力的で、行く先々で物を倒したり人を追い出したりしていたのではない。またプロテスタントの祖でもあるルターは、ローマカトリックに対して過激な反抗運動を展開したのではない。彼の最初の行動は、95ヶ条の論題を教会の扉に貼ったことだった。

「反抗」という言葉を都合をよく解釈して、自分たちのやりたいようにやるのがプロテスタントではない。そこには守るべき常識や礼儀がある。それを無視することは、自分たちが信じるキリストを貶めることになる、ということがわからないのだろうか。おそらくわからないのだろう。

QooQ