神様に「用いられる」子供たちについて

2014年12月14日日曜日

キリスト教信仰 教育

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 聖霊派だけだと思うけれど、小学生くらいの子供に「預言」をさせるとか、「異言の解き明かし」をさせるとかいう場面がある。海外の集会の映像で、10歳にも満たないくらいの子供に祈られて大人がぶっ倒れる、というのも見たことがある。以前「十代の十代による集会」の話を書いたけれど、これは更に低年齢化、更に「霊的」化した話である。
 
 その子たちがどういう教育を受けてきたのか知らないけれど、彼らに言わせると「主は幼子をも用いられる」とのこと。べつにそれに反論する気はない。聖書を見るとサムエルなんかは幼い頃に神様の声を聞いている。またヨブ記をみると、年配者ほど賢い助言ができる、とは限らないことがわかる。神様は年齢に関係なく、相手が幼くても語るだろう。
 
 また子供だからという訳でなく、彼らが言う「預言」や「異言の解き明かし」そのものが疑わしい。何故なら「吟味」という過程がないからだ。礼拝や祈りの場で「主がこう語られる」と誰か(有名人等)が言うと、無条件に「アーメン」となる。何も確認されない。むしろ即座に「アーメン」しないと不信仰扱いされる。預言を語る際に聖書が示す注意点を、彼らは知らないようだ。
 
 その証拠に、彼らは確かに語られたという証拠を何も提示できない。「御霊に感じた」「確かに語られた」と自分で主張するだけだ。現に「10月に携挙がある」と「預言」したけれど外して、それが神様からでなかったことを逆に証明している。
 
 そういう大人たちに囲まれた子供が言う「預言」や「異言の解き明かし」が、その大人たち以上に信頼に足るかどうかは、ちょっと考えればわかる。
 
 べつに子供をバカにするつもりはないけれど、箴言は子供を「愚かさにつながれている」と言っている。子供を育てたことがあれば、それは実感としてわかる。ヨソの子は優秀に見えることもあるけれど、自分の子の欠点は親ならよく知っている。そしてその欠点はおよそ修正不能に思えることもあって、「つながれている」という表現にも納得できる。
 
 けれどそれは子供だから仕方のないことであって、何ら問題ない。問題はそういう子供を殊更に神聖視して、「預言」させたり「異言の解き明かし」をさせたりすることだ。
 
 いつも書いているように、子供には特に教育が必要だ。何かさせるにしても、仕事みたいな責任を持たせるべきでなく、あくまで体験としてさせるべきだ。つまりアウトプットよりインプットが中心でないと、結局アウトプットそのものができなくなる。サムエルだって幼い頃は「語られた」だけであろう。
 
 そういうことを考えず「子供だって用いられる」としか考えない大人たちに囲まれて、子供はどう育つのだろうか。幼い頃から「異言」とか「預言」とか「解き明かし」とか「見分ける」とかやって、それはそれは「霊的」な人間になるのだろうか。けれどその「霊的」は、人々を本当に助けることができるだろうか。人々を欺くことにならないだろうか。周囲の大人たちがそうであるように。
 
 ちなみに「活躍する子供たち」を見ると、映画やドラマに登場する子役俳優のことを連想する。子役として成功すればするほど、成人してからの成功が難しいと聞いたことがある。その理由は個々にあるだろうけれど、たぶん「子供時代に経験すべきことを経験できなかった」というのは要因の一つとしてあるのではないかと思う。
 
 クリスチャン家庭、特に牧師家庭の子供を多く見たけれど、彼らの多くは「いい子」だ。礼儀も言葉遣いも気遣いもできている。「やっぱり神の祝福が注がれている」とか周囲から言われる。
 けれどよく見てみると、その背後に時として、計り知れないストレスや葛藤の存在を感じる。そして残念ながら彼らのうちには、何かのキッカケで大きな問題を起こしてしまう子もいる。日本にいられなくなって海外に活動の場を移した子もいる。自業自得とはいえ、哀れに思えてならない。
 
 そしてそれは彼らだけの責任ではない。そう仕向けた親や大人たちの責任は大きい。

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