神の存在の証明・あるいは反証について。映画『神は死んだのか』から。

2014年12月28日日曜日

キリスト教系時事 映画評

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 前回に続いて、映画『神は死んだのか』から。

 この映画に私がもっとも期待したのは、無神論者がどんな主張で神の存在を否定し、クリスチャンがそれにどう反論するか、という議論の部分である。この映画が双方の主張を全て出し尽くしているのかどうかわからないけれど、まとめるとこんな感じだ(ネタバレになるので未見の方は注意)。
 また、一回観ただけなのでたぶん全部は網羅できていないと思う。そこはご容赦いただきたい。

■無神論の主張

・ニーチェ、カミュ、フロイト、チョムスキーなどの著名な学者はみな無神論者だった。
・そもそも神の存在を科学的に証明できないではないか。
・理論物理学者ホーキングは、宇宙が自発的創造によって自らを作ることができたと言っている。つまり宇宙の創造に神は必要なかったと。
・全能の神が存在するなら、なぜこの世に悪や不幸があるのか。

■クリスチャンの主張

・神が存在しないと証明することもできない。
・ダーウィンの進化論によると、生物は非常に緩やかに進化してきた。けれど宇宙誕生から現代までを24時間とすると、人間の出現は最後の数秒間(確か)の出来事であり、その変化はあまりに急激すぎる。
・ホーキングが偉大な物理学者だから間違えないとは限らない。
・宇宙が自発的創造をしたとして、その理由は? 宇宙に意思があるのか? 神が意思を持って作ったのでないと創造のストーリーが説明できない。
・この世に悪や不幸があるのは人間に自由意思が与えられているから。
・神がいないなら、聖書の基準に従う必要もなく、道徳も必要ない。ドフトエフスキーは「神がいなければ全てが許される」と言っている。
・(ラディソン教授の「私は神を憎んでいる」という発言について)存在しない相手をなぜ憎むことができるのか?

 だいたい以上だと思う。
 見ての通り、無神論者の主張の方が論理的に明らかに弱い。
 哲学を長く教えてきたラディソン教授にしては根拠が薄いのと、新入生のジョシュにしては論理武装が充分すぎるのとで、結果的に勝負にならなくて違和感がある。まあそこは映画だから仕方ないとは思う。けれど前回書いた通り、これはクリスチャン映画であり、結論ありきのストーリー展開でもあるから、無神論者にとっては出発点がそもそも不利だったかもしれない。

 また、そこまで論理的でなくても、自分自身の存在が単なる偶然なのか、あるいは自分より偉大な存在(それが神でも何でもいいけれど)の意思によるものなのか、という点で考えると、後者の方がよっぽど救いがあるように私は思う。単なる偶然だとしたら、生きる意味も価値も見出しづらくなるからだ。

 それに仮に創造者が存在しないとしても、自分は何らかの意図をもって創られた、誰かが自分を創ってくれた、と信じて生きる方が、それなしに生きるよりも、より良い人生を送れるのではないだろうか。

 ただしその結果クリスチャンになって信仰生活を送るとして、じゃあどんな教会でどんな信仰生活を送るかというのは、また別の難しさを持つ問題である。そこで全部が台無しになる、ということもあり得るからだ。

 この映画について反芻しながら、そんなことを考えた。
 繰り返すけれどこれはクリスチャン映画であり、(言葉は悪いけれど)クリスチャンにとって都合のいいように作られている。また前回書いたような危険性も感じさせる。
 けれど同時に、クリスチャンだからこその良さも私は思い出させられた。神を否定しろと言われて、イロイロ考えたけれどやっぱり否定できない、そんな主人公の姿に、クリスチャンなら誰もが共感するのではないかと思う。

 単館系だから上映期間も短いかもしれないので、興味のある方は早めに劇場へどうぞ。

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