2014年12月17日水曜日

クリスチャンと「自分探し」の危険な関係・その2

 前回のまとめ。
 大人になってもまだ「自分探し」をするのは、自分のことしか考えていない心理状態を現している。
 また教会で「自分探し」をすると、「賛美する者」とか「預言する者」とかいうステレオタイプな役割を自分のアイデンティティと思い込んでしまい、かえって自分を見失うことになる。以上。
 今回は、別の視点から考えてみたい。

 クリスチャンは「なり方」が2種類あって、

①未信者がある時点でクリスチャンになった
②クリスチャンホーム生まれでいつの間にかクリスチャン

 というのがある。もちろん厳密にどちらかに分けられないケースもあるだろうけれど。

 それで①と②では、(あくまで傾向として)持っている雰囲気が違うように思う。②の方が「いい子」が多いようである。あるいはグレていても、どこかグレ方が可愛い(もしくは中途半端)のである。たぶん幼い頃から聖書を教えられていたり、教会学校で過ごしていたりするのが大きいのだと思う。

 ②の人に「いつ神様を信じたか?」と聞くと、「いつの間にか」と答える人が少なくない。神様がいるのが当たり前で、何も疑問に感じない、という感覚なのだ(もちろん中には、「いついつ神様に本当に出会った」と言う人もいるけれど)。

 そういう人の場合、アイデンティティはまさに「神様がいての自分」なのかもしれない。
 ①の人は「こういう自分が神様に出会った」という感覚だろうけれど、それに対して②の人は「神様は初めから自分と一緒にいた」のである。だからアイデンティティの確立の仕方が、両者とも根本的に違うのではないか。

 そういうことがあって、②の方が「いい子」が多いのかもしれない。
 もちろん、どちらが良いか悪いかという話ではない。けれど親からしたら、「いい子」であるに越したことはないだろう。

 そう書いておいて前言を思いっきり撤回するようだけれど、クリスチャンホームの「いい子」というのもイロイロある。

 たとえば、彼らはどうすれば教会の大人たちが喜ぶか知っている。「将来牧師になりたい」と思っていもいないのに言ってみたり、「神様がこんなことしてくれました」とちょっと大げさに話してみたりして、大人たちが感嘆するのを楽しんでいたりする。あるいは聖書の知識がけっこうあるから、「この場合聖書はこう言っていますね」とか、まるで神殿で話し込んでいた12歳のキリストみたいなことをするのである。若干大人を手玉に取った感じがする。

 それとは逆にかわいそうな面もある。たとえば親が熱心な家庭の子らは、毎週教会学校に通う。そこで毎週聖書の話を聞く。それから大人の礼拝で説教を聞くかもしれない。日曜を終日教会で過ごす子は、他にもいろんな形で聖書のメッセージに触れる。だから彼らからしたら、「耳タコ」な話が多い(もちろんその教団教派によっても違うだろうけれど)。

 べつに教会学校をどうこう言うつもりはないけれど、慣れている子供たちからしたら、「またその話かよ」ということが少なくないようである。確かに話の切り口とか内容とかが違っていても、結局言いたいことが同じなら、「それ知ってる」みたいになるだろう。それは基本的に大人も同じだけれど、子供の場合、反応がより明確である。

 だから頑張っている教会学校の先生は「子供たちが真剣に話を聞いてくれない」と悩んだり、「もっと飢え渇いて聞くように」と祈ったりするようだけれど、子供の立場で言えば、「いい加減にしてくれ」なのではないだろうか。

 だから「いい子」というのもイロイロある。子供の頃はあまり聖書漬け、宗教漬けでない方が健全な気もするけれど、そんなことを書くと怒られそうなのでやめておく。

 ただアイデンティティの点で言うと、「神様がいての自分」というのは、詰まるところ自分を半分見失っているような状態ではないかと思う。「聖書がこう言っているから」「神様はこう願っているから」というのが根っからの行動基準になっているとしたら、「自分はこうしたい」というのをハナから諦めていることにもなる。自分がいるようで、実はいない。極端に言えば「従順ロボット」みたいな心理状態ではないだろうか。

 そう思うと、「将来牧師になりたい」と言って周囲の大人たちを感嘆させ、手玉に取って楽しんでいる子供というのも、どこか哀れである。ほんの遊びのつもりでピエロを演じているようでいて、実は演じさせられている、と言ったら言い過ぎ・考え過ぎだろうか。

2 件のコメント:

  1. クリスチャンホームの子供が周囲の大人を喜ばせるような言動をする・・・これを「よい子症候群」というのだそうです。
    岩波書店から出ている本で「釜ヶ崎と福音」という本があります。著者の本田哲郎さんがまさしくクリスチャンホームに生まれ育った子供で、よい子症候群に陥っていたといいます。
    周囲の大人の顔色を常にうかがい、どのようにふるまえば大人が喜ぶかを心得ていたとかで(一例をあげると「大人になったら神父様になりたい」といえばみんなからほめてもらえるとか)、通常は反抗的になる思春期も家から離れて暮らしたせいか、大学を卒業して神父になるまで周囲に反発することもなかったとありました。
    フランシスコ会の修道司祭になってからも大変順調で、若くしてフランシスコ会の日本管区長にまでのぼりつめたのです。
    どこにいっても「神父様、今日のお説法は本当に素晴らしかった」といわれ順風満帆だったのですが、フランシスコ会の仕事で釜ヶ崎にいって・・・この先はどうぞお読みください。岩波書店の本は図書館にならあるでしょう。

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  2. 匿名様
    コメントありがとうございます。
    「よい子症候群」という言葉があるのですね。初めて知りました。『釜ヶ崎と福音』、ぜひ読んでみたいと思います。ありがとうございました。

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