2014年12月6日土曜日

クリスチャンは「無学」でいいのか

 おそらくペンテコステ系教会だと思うけれど、「神は無学な者を用いられる」というフレーズを強調する向きがある。
 
 元漁師のぺテロたちが神について大胆に語ったのを、ユダヤ教の偉い人たちが驚いた、という箇所がある(使徒4章)。教養もあって地位もある祭司たちを「無学」な弟子たちが論破した、といういわゆる逆転劇である。ドラマ『半沢直樹』にハマった日本人にはたまらない展開であろう。
 
 だから神様が「無学」な者を用いて、知者たちの高い鼻をくじいたのは事実である。そしてそういう「不利な者が有利な者を負かす」というのを、きっと神様は好むのだと思う。たとえば神様に選ばれて士師になったギデオンは、当時の最弱部族の最若家庭の出身だった。またイスラエルの王となったダビデは、兄弟から除け者にされた身だった。他にもそういう例はあるだろう。
 
「持っていない人」が、「持っている人」を打ち負かす。
 それはたぶん前者の為というより、後者の為の神様の愛ではないかと私は思う。
 
 で、ペンテコステ系はこの「持っていない人」すなわち「無学」を強調する訳である。
 私が知っている実例でも、「神学校で学んでも3年かけて頭でっかちになるだけだ」ということで献身者に神学校に行かせず、自教会でちょっと訓練しただけで(あるいは信仰生活が充分長いとかで)、牧師と名乗らせた、というのがある。
 あるいは牧師と名乗らせないまでも、「教会スタッフ」「インターン」「伝道師」みたいな名称の、一定の立場(一般信徒とは異なる扱いをされる立場)を与えるというのがある。
 
 もちろんそういうことで牧師になっても、他の教派とか教団では通用しない訳で、単にイタイだけである。けれどその教会がある程度大きかったり、チェーン店化していたり、同じような教会群とのつながりが強かったりすると、狭い世界とはいえある程度の地位になる。その中では認められる。
 
 そうなるとますます(自分の地位を守るためにも)「無学でいいんだ」という主張になるだろう。むしろ「無学でなければならない」みたいに言い出すかもしれない。
 
・ではクリスチャンは「無学でいい」のだろうか。
 
 冒頭のペテロの例で考えてみると、彼は確かに当時のユダヤ教的には「無学歴」だったろう。けれど、じゃあ全く何の知識もなかったかと言うと、そんなことはない。彼はキリスト本人と3年以上一緒にいて、いろいろ教えられたはずだ。また復活後のキリストとも話した。その彼の知識と経験とは、当時の学歴に換算したらゼロだろうけれど、きっとそれを凌駕する内容だったに違いない。
 だから、ここで言う「無学」は知識ゼロという意味ではないはずだ。
 
 それに「聖霊に満たされて語った」というのは、恍惚状態になって、操り人形みたいな、自分が何を言っているのかわからない状態で語ったのではない。あくまでペテロ本人のクリアな意識で、その知識を使って、選択的に語ったはずだ。
 そうでなければ、聖書を全く知らない・読んだことのない完全に無知な人も「聖霊に満たされて語る」ことができることになる。けれどその人は恍惚状態・睡眠状態で語らせられたことになる。何も知らないのだから、自分の言葉で語るなんてできないからだ。
 そしてその人は目覚めたら何も覚えていない訳で、だったらクリスチャンである必要はない。神が適当な人を選んで、一時的に操り人形にして、語らせればいい。
 
 という訳で、聖霊に満たされようが満たされまいが、知らないことは語れない。だから神が何かを語らせようとするなら、その人はそれに足る知識を持っているはずだ。文字通りの「無学」ではそうならない。
 つまり、神は「無学歴」を用いるけれど、「無知」は用いられない。

・では学んでいればいいのだろうか。
 
 そうなると、じゃあ学歴がなくても、独学でも学べばいいだろう、という話になるかもしれない。確かに、ある神学校を修了したから牧師の資格がある、というのは若干疑問がある。とんでもない人格破綻者が、神学過程を修了しないとは限らないからだ。

 けれど一般的に考えて、学校を出るのと独学とでは事情が違う。学校なら系統的・総合的で抜けのない学習ができるだろうし、教材も環境も準備してもらえるし、ペース配分してもらえるし、理解度のチェック(テスト)もしてもらえる。独学だとそうはいかない。
 たとえば「東大卒の人」と、「東大卒レベルの頭脳の人」は同じではない。前者は東大の過程を全てやり遂げたと証明されている。けれど後者は、たとえ頭脳レベルが同じだとしても、その過程をやり遂げる忍耐力や自制心があるかどうかはわからない。

 だから「神学校卒業」という肩書きは、それだけで良い牧師であるとの証拠にはならないけれど、卒業していない人より「信頼度」において高いと言える。

結論)
 神様が用いられる「無学」の人とは、勉強していない、何も知らない人ということではない。むしろよく勉強していなければならない。ただ、それが学校の勉強で足るかどうかは一概には言えない。また独学で足るとも言えない。 

3 件のコメント:

  1. 「無学」とは単に学んでいないということではない、ユダヤ的に〇〇だ、みたいな「定義」があるようです。
    けれどそういう細かい定義がどうのこうのというのは、当記事の論旨には全然関係ないうえ、居酒屋で他の客にいちいち絡んでくる酔っぱらいのオッチャンみたいですから、どこかヨソでやったらいいと思います。

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  2. アメリカ生まれのキリスト教では「無知こそ神に近い」とか「知識は人を高慢にする」という考えがあると聞いたことがあります。
    新興宗教系のプロテスタントはアメリカ生まれのキリスト教といってもいいのですが、彼らに共通する反知性主義というのは、やはりここから出てきたものではないかと思います。
    アメリカは国土が広くて、いろいろな国から多くの民族が移民してきて成り立っている国です。日本は江戸時代から寺子屋があり、庶民でも当たり前のように読み書きそろばんを習っていましたが、アメリカでは19世紀になっても義務教育が全土に普及しているわけではなく、日本ほど識字率も高くなかったという話です。(日本ではありえないことですが、アメリカでは現代においても、幼稚園や小学校の教師を主婦のアルバイトに頼っている場所があると聞いたことがあります。)
    高度な知識を持った専門職を大量に育てなくても、天然資源が豊富で単純労働だけでも十分にやっていける国であればこそ、反知性主義というものが生まれてきたのではないかと思います。
    反知性主義の新興宗教系プロテスタントは「知識は人を高慢にする」といいながら、なぜか教祖様がこの世で一番高慢だったりするのです。たとえば什一献金をよこせというのが高慢の最たるものです。学のない自分の説法など、横町のご隠居さんの与太話未満の中身しかないというのに、信者に向かって「てめえの収入の一割をよこしやがれ!」というのですから、高慢きわまりないと思いませんか?むしろハーバードを出てディプロマミルではない博士号を持っている聖職者のほうが、そのような高慢なことをいわないのです。
    どうみても「無知は人を高慢にする」が結論といえるでしょう。上には上がいるとわかっていないがゆえに、人の収入の一割をよこせなどといっても恥ずかしいと思わないのではないでしょうか。

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  3. 文字通り無学であれば、いわゆる聖書の「霊的解釈」、「新たな預言的啓示」を信者は無知ゆえに疑うことなく受け入れてしまいますよね。そこに大きな問題が潜んでいるのではと思います。聖書に無知であれば御言葉の解釈が歪められ、教養や世界情勢に無知であれば、誤った終末論的な解釈や陰謀論に流されることになります。どちらも偽教師、偽預言者が蔓延る要因となっていることに、心がいたみます。

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