2014年12月21日日曜日

謝らないクリスチャンと謝るクリスチャン、どちらが信頼できるか

「謝る」というのは人として基本的な行為だけれど、実際にするのは案外難しい。

 明らかに自分に非があり、どう考えても弁解の余地がないなら、謝って当然だろう。あるいはシンプルな失敗なら簡単に謝れると思う。
 けれどほとんどの場合は相手にも非があったり、自分を正当化する材料もあったりするから、素直に謝るのが難しかったりする。職場など身近なところを見ても、謝ることのできない人は少なくない。傾向として年輩になればなる程そうだ。

 映画『謝罪の神様』でこんな話があった。日本には「とりあえず謝っておく」という習慣があるけれど、欧米には後々不利になるから簡単には謝ってはいけない、という逆の習慣がある。「土下座」という言葉がある通り、日本には謝罪の文化がある、というような話だ。

 頷けるところもあるけれど、その「謝罪の文化」が現代に受け継がれているかどうか、かなり怪しいと私は思う。
 そして私の場合クリスチャン生活が長いからかもしれないけれど、謝れない日本人というより、謝れないクリスチャンを多く見てきた。

 たとえば以前、あるクリスチャンから根拠のない言いがかりを付けられたことがあった。私が個人名を特定して根も葉もない誹謗中傷を書いている、みたいな内容だった。もちろんそんな記事は存在しない。その旨を説明すると(本当は説明なんかする必要なかったけれど)、相手は引き下がった。けれどなお私にケチを付けるだけで、今に至るまで何の謝罪もない(その人物がこの記事を読むかもしれないからあえて書いておくと、聖霊派クリスチャンにそこまでモラルを期待した私がバカだった)。
 

「10月携挙説」を主張して11月になると逃亡したクリスチャン(?)も、「聖霊様が謝らなくていいと言ったから謝らない」とか言っている。約束を反故にして謝らなくていいというのは子どもの世界でも通用しない。もし本当に神様にそう言われたとしたら、「いえ、それでも私は謝らなければなりません」と食い下がるのが本当だろう。ソドムの滅亡を事前に教えられたアブラハムも、神様に考え直すように食い下がった。神様とクリスチャンとの関係は、後者が何でもハイハイ言うものでなく、本来そういうもののはずだ。

 他にも大小イロイロなケースがあるけれど、イロイロ理由をつけて結局謝らないというクリスチャンはいる。
 けれど、じゃあ謝ればいいかと言うと、そう簡単な話でもない。

 ある教会から、一組のクリスチャンホームが突然離れた。何の挨拶もなし、何の連絡もなしである。信徒からしたら驚くばかりだ。ある日曜の礼拝に来なくて、たまたま休んだだけだと思っていたら、牧師が突然言う。「あの家族はこの教会を離れました」
 理由はよくわからなかった。ただ牧師が、「私の力不足でした」と泣いて土下座したのである。よくわからないけれど、何か大変なことがあったのだろう、そして牧師先生は一生懸命努力したのだけれど、どうにもできなかったのだろう、そんな印象を持った。だからその家族の方に何か問題があったのだろう、という推測に繋がった。だって牧師がこんなに泣いて、土下座して謝っているのだから。

 けれど何年か経って真相がわかった。その家族が牧師にとって不都合なことを言ったから、牧師が怒って追放したのだ。牧師が手前勝手に追い出しておいて、残った信徒に「あの家族は(止めたのに)出て行った」という作り話をした訳である。
 私が呆れたのはそういうウソでなく、そのために泣いて土下座して見せる根性の方だ。あれだけ真に迫って悔い改めているように見せて、全部演技だったとは。

 だから謝らないというのも問題だけれど、謝ったから全部解決ということでもない。

 ここまで書いておいて今更という気もするけれど、ちゃんと謝れる、立派で誠実なクリスチャンも多い。とても善良で、お人好しな人たちだ。そういう人たちは、牧師が泣いて土下座すれば簡単に信じて許してしまう。その陰で牧師がペロリと舌を出しているとも知らずに。
 人を信じるとはつくづく大変なことである。

7 件のコメント:

  1. 「人を信用(或いは信頼)出来ない者は、神に信頼などできるはずがない」
    これは、以前所属しておりました教会の牧師が言っていた事ですが、確かに御言葉にはその様に書かれているでしょう。
    しかし、イエスは「蛇のように聡く、鳩のように素直であれ」とも言われました。
    私は簡単には人を信用しません。まずは疑ってかかる、と言うのが筋ではないでしょうか?
    表面は、と言うよりも対人関係ですからまずは礼儀を尽くしますが、それから「選別」して行くものと思います。
    また、確かに「表面上は謝る」と言う事は時と場合にあるでしょう。
    また、何が何でも正直に・素直に「謝る」と言うお人好しもおられるかも知れません。
    日本文化は平和主義と言いますか、丁寧にこなして行くのが主流です。「向こう三軒両隣り」。町内会も入会は自由ですから、昨今はその様なお人好しも減って来ているのでしょうけれど。
    翻って、キリスト教を日本に伝えた欧米文化は、先程お話にありましたように「不利になる恐れがあるので簡単には謝らない」知恵を使っていますよね。
    よく教会で言われるのは「日本文化は偶像がどうの、表面的だからどうの」完全に欧米宣教師が上から目線で見た事のオウム返しでしかありませんよね。
    日本のキリスト教は、どうもその辺が捉え間違いをしているように思えるのですが。
    もちろん、自分の失態を隠すために去り行く者に罪を着せて、自分を正当化する「悔い改め芝居」をやってのけるなどは、言語道断ですが。

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    1. マリック様

      いつもコメントありがとうございます。
      人を信じない者は神様も信じられない、というのは私も散々聞かされた覚えがあります。牧師にとって都合のいい言葉ですよね。ただ聖書を悪用しているだけだと思いますが。

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    2. ふと悪徳商法を思い出してしまいました。1985年に起こった豊田商事事件を調べてみますと、多額の金銭をだまし取られてしまった高齢者たちは、「このセールスマンはいい人だ。この人のすすめるものならきっと間違いがないだろう。」と信じ込んでしまったのが原因だったとわかります。
      「この人はいい人だ。この人のすすめるものなら・・・」と信じ込ませる商法は、今も様々な悪徳商法として存在しています。その典型といえるのがSF商法でしょうか。
      礼儀正しい好青年が、まるで孫のように「おばあちゃん、おばあちゃん・・・」とにこやかに接してくれるのです。
      高齢者の中にはSF商法の会場に毎日通ったあげく、何百万円ものローンを組まされた人がいたりします。「なぜこんな高いものを買ったんだ?!」と息子や娘がブチ切れて怒鳴りますが、当の本人は「あの人はいい人だよ。私の健康のためを思ってすすめてくれたんだから・・・」と言い返すだけで、自分が被害者であるという意識はみじんもありません。SF商法が悪徳商法といわれながらも、高齢者自身が納得して買っているために、自分が被害者であるという自覚がなく、グレーゾーンになってしまうのは、まさにこの点にあります。
      もっとも高齢者の中には、何か月も通っても何一つ買わずにもらい逃げして、ほくそえんでいる人も決して少なくはありません。高額の商品を買ってしまった人たちとそうでない人たちではどこが違うのでしょうか?
      実は前者とちがって後者はSF商法をこう見ているのです。
      「ああいう会社は退職金もないし、社員の平均年齢が若い。つまりまともな会社じゃない。あんな会社にしか勤められない人間はどうせろくでなしばかりだ。あんな連中の笑顔に騙されるやつはバカだ(笑)。」
      新興宗教系プロテスタントはSF商法の会社と同じで、決してまともとはいえない宗教なのです。そんな宗教を男子一生の仕事にしていこうなんて考えている人たちが、はたして信用に値するのでしょうか?こういった宗教に行って、彼らのいうままに収入の一割を献金している人たちは、「あの人はいい人だから。」といって、すすめられるままに高価な布団や健康食品を買って、高額のローンを組まされて、息子や娘に雷を落とされる高齢者を笑えるのですか?

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    3. そのとおりです。アーメン!

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  2. 保守バプテストの宣教師が、リバイバル神学校の霊的戦いの教えが、あなたが霊的に成長すればわかるようになりますといいはなちました。
    こんなことはいいたくありませんが、保守バプテストの長期宣教師は、米国では雇ってもらえるような質の人たちではありません。
    日本にくるのはとめられませんが、せめてここまで間違った教えを広めないでいただきたい。
    宣教師だからと簡単に信用してはいけない時代に来ているとおもいます。
    それを英語がわからない人や、老人や、地方の牧師たちは、
    瀬教師=主からの人のようにいいますが、それは一昔前の話であって
    いまはそうではないことを少し気づいていただきたいとおもうのです。

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    1. 霊的戦い・・・「終わりね、あんた」といいたくなりました。しかもリバイバル神学校なんて(苦笑)。
      保守バプテストに限らず新興宗教系のプロテスタントの宣教師は、アメリカ人でも韓国人でも頭のおかしな人が多いのは事実ではないでしょうか。実際かなり電波な発言をする人は珍しくありません
      保守バプテストの長期宣教師は米国で雇ってもらえるような質の人たちではありません、ということは日本という国を相当なめてかかっているということではありませんか。非常に失礼な話だと思いませんか?
      実際に韓国でもアメリカでもかなりおかしな人を日本に送り込んでいるのは事実です。外国人宣教師が信用できたのは、せいぜい明治の中ごろくらいまでのことではないでしょうか。札幌バンドや熊本バンドや横浜バンドの宣教師たちが元気で頑張っていたころしか信用はできかねるといえましょう。
      北朝鮮では金正日政治軍事大学で工作員を養成しますが、あの大学で一番出来のいいのは韓国に潜入する任務を与えられ、一番出来の悪いのは日本に潜入する任務を与えられるのだそうです。韓国やアメリカの新興宗教系のプロテスタントもこのあたりの事情は同じようなもので、きっと一番出来の悪いのが、信者獲得が困難で物価の高い日本に送られるのではないかと思います。

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  3. 自分が通う教会で謙遜を装いつつ陰でこそこそと悪さをしていた人を何人も見ました。その人たちに共通するのは「謝る」ことはなかったか謝ったとしてもまたこそこそと悪さをしている。あきれます。

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