「謝る」というのは人として基本的な行為だけれど、実際にするのは案外難しい。
明らかに自分に非があり、どう考えても弁解の余地がないなら、謝って当然だろう。あるいはシンプルな失敗なら簡単に謝れると思う。
けれどほとんどの場合は相手にも非があったり、自分を正当化する材料もあったりするから、素直に謝るのが難しかったりする。職場など身近なところを見ても、謝ることのできない人は少なくない。傾向として年輩になればなる程そうだ。
映画『謝罪の神様』でこんな話があった。日本には「とりあえず謝っておく」という習慣があるけれど、欧米には後々不利になるから簡単には謝ってはいけない、という逆の習慣がある。「土下座」という言葉がある通り、日本には謝罪の文化がある、というような話だ。
頷けるところもあるけれど、その「謝罪の文化」が現代に受け継がれているかどうか、かなり怪しいと私は思う。
そして私の場合クリスチャン生活が長いからかもしれないけれど、謝れない日本人というより、謝れないクリスチャンを多く見てきた。
たとえば以前、あるクリスチャンから根拠のない言いがかりを付けられたことがあった。私が個人名を特定して根も葉もない誹謗中傷を書いている、みたいな内容だった。もちろんそんな記事は存在しない。その旨を説明すると(本当は説明なんかする必要なかったけれど)、相手は引き下がった。けれどなお私にケチを付けるだけで、今に至るまで何の謝罪もない(その人物がこの記事を読むかもしれないからあえて書いておくと、聖霊派クリスチャンにそこまでモラルを期待した私がバカだった)。
「10月携挙説」を主張して11月になると逃亡したクリスチャン(?)も、「聖霊様が謝らなくていいと言ったから謝らない」とか言っている。約束を反故にして謝らなくていいというのは子どもの世界でも通用しない。もし本当に神様にそう言われたとしたら、「いえ、それでも私は謝らなければなりません」と食い下がるのが本当だろう。ソドムの滅亡を事前に教えられたアブラハムも、神様に考え直すように食い下がった。神様とクリスチャンとの関係は、後者が何でもハイハイ言うものでなく、本来そういうもののはずだ。
他にも大小イロイロなケースがあるけれど、イロイロ理由をつけて結局謝らないというクリスチャンはいる。
けれど、じゃあ謝ればいいかと言うと、そう簡単な話でもない。
ある教会から、一組のクリスチャンホームが突然離れた。何の挨拶もなし、何の連絡もなしである。信徒からしたら驚くばかりだ。ある日曜の礼拝に来なくて、たまたま休んだだけだと思っていたら、牧師が突然言う。「あの家族はこの教会を離れました」
理由はよくわからなかった。ただ牧師が、「私の力不足でした」と泣いて土下座したのである。よくわからないけれど、何か大変なことがあったのだろう、そして牧師先生は一生懸命努力したのだけれど、どうにもできなかったのだろう、そんな印象を持った。だからその家族の方に何か問題があったのだろう、という推測に繋がった。だって牧師がこんなに泣いて、土下座して謝っているのだから。
けれど何年か経って真相がわかった。その家族が牧師にとって不都合なことを言ったから、牧師が怒って追放したのだ。牧師が手前勝手に追い出しておいて、残った信徒に「あの家族は(止めたのに)出て行った」という作り話をした訳である。
私が呆れたのはそういうウソでなく、そのために泣いて土下座して見せる根性の方だ。あれだけ真に迫って悔い改めているように見せて、全部演技だったとは。
だから謝らないというのも問題だけれど、謝ったから全部解決ということでもない。
ここまで書いておいて今更という気もするけれど、ちゃんと謝れる、立派で誠実なクリスチャンも多い。とても善良で、お人好しな人たちだ。そういう人たちは、牧師が泣いて土下座すれば簡単に信じて許してしまう。その陰で牧師がペロリと舌を出しているとも知らずに。
人を信じるとはつくづく大変なことである。