【雑記】実名を挙げるか、伏せるか、という話

2014年12月19日金曜日

雑記

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 このブログを始めた頃から度々考えていたことがある。実名を挙げて書くべきか、伏せて書くべきか、ということだ。当初は明確な結論のないまま、とりあえず実名は伏せて書いていた。
 
 もっとも当時は当時で事情があった。
 このブログの「ほぼ毎日更新」が始まったのは2013年3月だけれど、その数年前まで私は「超」熱心な聖霊派クリスチャンであり、ここで問題提起しているような事柄のほとんどに手を染めていて、それを当然とする人間であった。ところがイロイロ問題が起こり、「もしかして間違いだったのでは?」という気づきから、「いや、間違っている部分もあったよ」を経て、「いやいや、ほとんど全部間違ってたんじゃね?」に至った訳である。それでその間違いについて書き始めたのだけれど、当初はまだ(自分を含む)関係者のダメージが生々しくて、とても実名を挙げて書ける状態ではなかった。被害を受けた人たちが更なる被害を受けないよう、できるだけ配慮しなければならなかった(そしてそれは今も続いている)。
 
 という訳で実名を挙げないことにしたのだけれど、じゃあそれと無関係な人物名や団体名なら挙げてもいいかと言うと、それも違う気がした。一方を伏せて書き、もう一方を実名で書くのはフェアでない気がしたからだ。
 もちろん、挙げても何の支障もない個人名・団体名は別だ。たとえば村上密先生とか、海外のメガチャーチ名とかは今までにも何度か書いてきた。
 その村上先生は個人名・団体名をガンガン書いていて、それはそれで必要なことだと私は思う。実際に訴訟問題を取り扱っておられるから、むしろ堂々と実名を挙げるべきかもしれない。

 けれど、ある傾向を持ったキリスト教会やクリスチャンに対する批判的意見を書く場合、全てが実名でなければならないとも思えない。何故なら実名を挙げるにしても、伏せるにしても、それぞれに役割があると思うからだ。
 
 実名を挙げる場合、それはより直接的な「対決」になる。実際の被害があり、証拠なり根拠なりがあって、その加害者を名指しで非難するのだから、争いになるのは必然だ。訴訟問題に発展するかもしれない。
 だからその行動の本質は「ブログを書く」ことでなく、「特定の加害者を糾弾し、特定の被害者を守る」ことにある。ブログはいわば副産物的な位置づけであろう。
 
 他方で、私のようにブログしか書けない人間もいる。どこかの誰かや団体と直接対決する程の強い動機も時間的余裕もないけれど、同種の事柄に対する問題意識はあり、問題提起しようと考える人間だ。その目的は自ずと、「特定の個人や団体と対決する」ことでなく、より普遍的な表現になる。
 たとえば、どこそこの聖霊派教会のやり方を特定して問題視するのでなく、それを聖霊派教会全体が陥りやすい問題として表現する、という感じだ。現に同じような問題を、直接関係ない複数の教会が起こしている。その場合、それは教派そのものが孕んでいる問題と言えるはずだ。そういうことを書くことで、問題を一地域教会内の出来事から、教派あるいはキリスト教界全般のテーマにできるのではないかと思う。
 
 だから実名を書くのも伏せるのも、それぞれの役割なのだと私は考える。そして私自身は現段階では実名を伏せた書き方、より普遍的なものを目指す書き方を採っている。実名を挙げて糾弾するのは、法廷問題に対応できる人たち、ある程度専門的に対応できる人たちに任せるべきだ。そういう実務的なことができないのにやろうとするのは単に無謀なだけでなく、無責任でもある。
 
 とは言いつつ、対象をほとんど特定できるような記事も書いている訳だから、その線引きには難しいところもある。けれど実名を挙げるか伏せるかについて、最近考え至ったのは以上のようなことだ。
 もし「実名を挙げないのは卑怯だ」と言う方がいたら、ぜひご自分で調べて実名を挙げ、とことん戦われたらいいと思う。きっとそこまでの覚悟があるのだろうから。

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