【雑記】クリスマス・イブに教会について思うこと

2014年12月25日木曜日

雑記

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 今夜はクリスマス・イブということで。

 クリスマスはカップルで過ごすもの、というイメージは過去のものとなったようだ。最近の日本のクリスマスの過ごし方は、カップル1割、家族3割、ひとり5割、その他1割という構成とのこと。ひとりぼっちでクリスマスを過ごす「クリぼっち」が多く、そういう人たちをターゲットとした商業サービスが急増しているようだ。

 一方でキリスト教会を見てみると、プロテスタントの一部だけかもしれないけれど、クリスマスを伝道の機会として捉えているところが多い。「クリスマスの本当の意味は・・・」みたいなメッセージが定番となっている。
 このスタイルはもう20年、あるいは30年は続いているだろう。巷の「カップルで過ごす」→「ひとりで過ごす」という変化に比べて、こちらはほとんど変化していない。

 それが普遍的で効果的なやり方なら、変える必要はない。けれど効果的な方法を20年も続ければ教勢は劇的に変化しているはずで、現にそうなっていないのは、それが効果的でないからだ。あるいは何か問題があるからだ。そういうことを考えず同じことを延々繰り返すのは、掘り尽くした畑を飽きずに掘り続けるようなものだ。

 クリスマスの伝道集会は、普段の集会に比べて未信者が来やすい。教会についてよく知らない人が、クリスマスのイメージに釣られて教会に来るからだ。けれどそれを「自分たちのアピールの成果」と考えてしまうのが、おそらく問題の始まりだ。
 クリスマスの伝道集会に来た未信者の教会定着率はどうだろう。統計データはないけれど、経験的にはほぼゼロに近い(教会によって違うだろうけれど)。

 以前も書いたけれど、教会は「クリスマスの本当の意味」にこそ最高の価値があると信じて疑わず、それを「救われていない人々」に提供してあげようとしている。けれどどこか上目線で、ターゲットとする人々のニーズも考慮していないように思う。こういうことがいつまで続くのだろうか。「リバイバル」とか熱心に叫んでいる人が大勢いるけれど、たとえば10年後、20年後、日本のクリスチャン人口が1%のままだとしたら、それはいったい誰の責任だろうか。

 今日本には「クリぼっち」が多いらしいけれど、本当にひとりがいいとか、他人と過ごすのがイヤだとか、そういうことでもないらしい。実は誰もが誰かと繋がることを望んでいる。としたら、教会は彼らにコミュニティを提供できる気がする。伝道するためにガツガツ人を集め、「イエス様の弟子」を作ろうと躍起になるより、誰もが安心して集えるコミュニティを提供する方が、よっぽど役に立つのではないだろうか。

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