定義にこだわる人がいる。
たとえば信徒が虐待されている教会を「カルト化教会」と表現すると、それは違います、カルトはそもそもこんな意味です、種類は破壊的とかイロイロあります、あなたのはカルト化とは言いません、みたいなことを言う。
定義がどうでもいいとは言わないけれど、数学の証明問題じゃないんだから、万人が共通理解・使用する定義が存在しないこともある。だいいち、そこまで定義にこだわって何になるのか。
たとえば映画『スターウォーズ』を定義したらどうなるか。タイトル直訳で「星の戦争」となるか、内容的に「宇宙の戦争」となるか、いやいやスターウォーズはスターウォーズだ、となるか。結局そんな議論に答えは出ないし、出たところで何にもならない。
ある牧師が問題を起こして失踪した教会で、今後どうするか、信徒たちが話し合った。話の流れで、誰かが「ウチはカルトだったのか」と切り出した。すると「そうだ」「いやカルトだなんて言うな」等の賛否両論別れる議論に発展し、だいぶ感情的な話にもなった。それまで感情表出が不自由だったという点では感情が出て良かったのだろうけれど、今後どうするかという切羽詰まった問題についてはずいぶん停滞した。むしろ感情的になった分、まとまるものもまとまらなくなったかもしれない。
その教会がどうこうでなく、このように「定義合戦」はよく話の腰を折ってしまう。私もイヤという程経験したので、定義と聞くだけでゲンナリする。繰り返すが定義自体が悪いのではない。悪いのは議論の方向を定義合戦にずらすことにある。つまり人間の側の問題だ。
たとえば上述のカルト化教会の被害者の集まりに参加して、「カルトってこういうことですよ、皆さんの被害は破壊的とまでは言いませんよ。どちらかと言うと軽い方ですよ」とか言ったらどうなるか。クリスチャンの集まりだから暴力沙汰にはならないだろうけれど、そうなってもおかしくない。そんな御託は、被害者には傷口に塩をベッタリ塗りつけられるようなものだからだ。仮にそうでなくても、そんな定義など何の役にも立たない。
そもそも定義というのは、既に起こった出来事・既に存在する事物を集めて調べて「これはこういうことだ」と意味付けることだ。当事者たちの気持ちや感覚とは関係ない。むしろ距離を置いている。だからこそ冷静になって意味付けができるのだ。
映画『タイタニック』は有名だから多くの人が観ているだろうけれど、非常に滑稽な場面がある。冒頭、発掘調査チームのメンバーが、タイタニックがどのような過程で沈没したか効果音付きで説明する。けれどその相手が年老いたローズで、彼女はかつて実際にそれを体験している。だから「船体がポキンと折れた」とか「あとはズブズブ沈むだけ」とか面白おかしく言われても、腹立たしいだけなのである。「実際はそんなもんじゃなかったのよ」と彼女は悲痛な顔で言っている。
信仰の虐待を受けたクリスチャンたちにカルト定義ウンヌンを抜かすのも、これと同じ種類の残酷さだと私は思う。
信仰の虐待を受けたクリスチャンたちにカルト定義ウンヌンを抜かすのも、これと同じ種類の残酷さだと私は思う。
定義は定義で大事だろうし、そういう分析や研究の成果を後の世のために有効活用してほしいとも思う。そういう役割の人も必要だろう。けれど同時に必要なのは、実際に目の前にいる被害者の気持ちに少しでも寄り添う役割の人々だ。そして寄り添うのである以上、定義とか分析とか研究とかいう学術活動は、二の次、三の次と考えるべきだ。私はそう思う。
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