2014年12月1日月曜日

「まだマシ」な被害と、そうでない被害について

 たとえばカルト化教会でこんな酷いことが行われている、こんな被害に遭った、これは信仰に見せかけた虐待だ、とかいうことを書くと、「それはまだマシな方だ」と言われることがある。そして世の中にはもっと酷いことがあり、もっと悲惨なことがあり、もっと苦しんでいる人がいる、ということを明に暗に言われる。

 それは確かにそうで、この世で最も悲惨なのは自分だ、とか思っている人はそうそういないだろう。私もそんなこと思っていない。
 カルト化教会にしても、まだマシなレベル、それより酷いレベル、最悪なレベル、みたいな分類はある程度可能だと思う。あるいはおカネの話ならもっと明確に、幾ら損したかで「悲惨のレベル」が判定されるかもしれない。

 そういう意味で、私が教会で経験したことや知っていることは、「まだマシ」なレベルかもしれない。多分そうであろう。けれど実際にそう言われると、何か腑に落ちないものを感じる。

 だが腑に落ちないのは、「悲惨のレベル」に不満があるからではない。悲惨さを軽く見積もられた、なんて思っていない。繰り返すけれど、私の経験は「まだマシ」な方であろう。もっと酷い信仰的虐待を受けた人は相当いるはずだ。

 じゃあ何が腑に落ちないかというと、その「まだマシ」という言葉の裏に、「そんなの大したことない。何でもない」というメッセージを感じるからだ。そこには、もっと悲惨な経験をした人が沢山いるのだからあなたのは悲惨のうちに入らない、という心理がある気がする。つまり「悲惨のレベル」が低い人間は最悪でなかったことに感謝すべきだ、悲惨だとか言うな、ということだ。

 わかりやすい例かどうかわからないけれど、子を亡くした親が二人いるとする。
 一人は不慮の事故で子供を亡くした。それは偶発的な事故であり、親にも子にも、他の誰にも責任がなかった。
 もう一人は、悲惨な事件で子供を殺害された。何の落ち度もない子が、残虐な犯人によって一方的に、理不尽に殺された。
 

 では前者の親に向かって、「あなたはまだマシな方だ。後者の親を見なさい、あなたよりずっと悲惨だ」などと言えるだろうか。少なくとも私は言えない。なぜならその人も子供を亡くしたのは同じだからだ

 カルト化教会の被害に遭った人の話を聞いて、「あなたのは軽いカルト被害だ」とか言う人がいた。私は耳を疑った。それが実際にどんなだったか、どれだけ辛かったか、今もどれだけ苦しんでいるか、まったく想像が及んでいないようだった。何年たっても傷が癒えず、ずっと引きずっている人からしたら、被害の軽いも重いもない。しかし残念ながら、そういうことは傍観者にはわからないようだ。

 もちろん被害の大小はある。けれど、その当事者にとっては、やり直しのきかない人生の中で確かに起こった、なかったことにできないダメージなのだ。辛くなかった訳がない。そういうことにちょっとでも考えが及ぶなら、「まだマシ」などとても言えないはずだ。

 人の気持ちに寄り添うのは難しい。わかったつもりで不要な発言をし、更にその人を苦しめてしまうことがある。カルト化教会の経験のみならず、何らかの理由で苦しんでいる人に対しては、何も言わないという選択肢もある。そして選び難いけれどそれが一番いい場合もあるということを、私たちは知っておくべきだ。

1 件のコメント:

  1. 問題はマシかマシでないかの問題ではない。
    私達羊は 時間とお金を犠牲にして教会にいくのだ。他のビジネスや世の中であっても、そんなことが起これば、理不尽だとして、クレームが言える。しかし、教会ではそれができない。
    ましてや、教会以外のボランティアでそんな待遇なんぞ、きかない。なぜなら、皆、無償で時間を捧げているからだ。自分の人生において、お金と時間を捧げる場所なのだから、やっぱり、被害なのである。そこに、大中小の分別がなんの意味をなすだろう。

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