2014年12月9日火曜日

クリスチャンと「偶像崇拝」・その3(まとめ付)

 クリスチャンと「偶像崇拝」の問題について書いている。
 前2回をまとめるとこんな感じ。

①趣味もダメ、娯楽もダメ、は偶像(貪欲)の排除というより、行き過ぎた禁欲。それにその結果、教会に引きこもったとしても、そこには「きよさ自慢」という貪欲がある。貪欲は心の中にあるから、どこに行っても避けられない。

②行き過ぎた禁欲の背景には、「全てを捧げます」という献身の思いがある。けれど同時に、「自分は役に立つ」という傲慢もある。しかし人間は神様にとって役に立つ存在ではない。

②について補足すると、神様の役に立たないから人間は不要だ、というような話ではない。そもそも神様と人間との関係は、「役に立つか立たないか」という視点で論じるべきでないと思う。神様が目的をもって人間を創ったのは間違いないけれど、それが実際的に神様を助けることとか、それがないと神様が困ってしまうとか、そういう話ではないはずだからだ。

 こう書くと、「でもアダムはエデンの園を管理したではないか。だから人間には世界を管理する使命があるではないか」と言う人がいるかもしれない。けれどアダムが園を管理したのは、神様がそれをできなかったからではない。神様がアダムに任せただけの話だ。

 だから、「全てを捧げて献身し、神様の役に立ちたい」というのは、その熱意はわかるけれど、若干ナンセンスを含んだ話だと思う。人間の存在理由、創られた理由は、もっと他にあるはずだからだ。「神とともに歩む」とは、ひたすら神様に奉公するだけの人生という意味ではない。それに神様に奉仕する存在なら天使たちだっている(それとて絶対的に必要なものではないけれど)。

 よく聖霊派教会(たぶん一部?)では、「神様のために生きるのが最高の人生です」という訳で、

教会献身=1番
働きながら教会を捧げる=2番
礼拝に来ない=3、4を越えて地獄行き

 みたいな序列が暗に語られている。けれどこれも「献身すれば神様の役に立つ」という視点に立った話でしかない。根本的に勘違いしている。

 ここまでくると、人生の意味に直結した話になる。すなわち「神様抜きの人生」は私たちクリスチャンには考えられないけれど、じゃあ「神様だけの人生」でいいいのか、という話だ。神様の役に立つことだけを私たちがひたすら考えて生きることが、神様の願いなのだろうか。私たちが何かに夢中になって楽しんだり、映画を観て涙を流したり、美味しいものを食べて満足したりすることを、神様は願っていないのだろうか(無論そういう平和な時代ばかりではないけれど)。

 もちろん、人間は世界宣教を託された訳で、それをすることは神の意志に従うことだ。宣教を専門にする人間も必要だろう。けれどそれを生涯し続けたとしても、だから「私は神の役に立った」と言うべきではない。むしろ生きる意味を与えられ、その通りに生きられたことを感謝すべきだと思う。

 またもちろん、ペテロやパウロのように神様を伝えることに生涯を捧げ、幾多の迫害に耐え、最期まで神様に忠実に歩んだ人たちもいる。尊敬に値する人たちである。けれど全ての人が使徒なのでなく、この世界には農作物を作る人や、機械を作る人、警察や医者、その他数えきれないほどの役割が必要で、皆それぞれ大変な思いをして働いている。使徒たちが犠牲を払って大変だったように、皆何かしらの犠牲を払って自分の役割を続けている。私たちは毎日ハッピーに暮らしている訳ではないし、どちらかと言うと逆であろう。

 だから「神様の為に生きるのが最高の人生だ」という台詞は、私にはどことなく絵空事に聞こえる。

 話がだいぶ脱線してしまったから戻す。
 クリスチャンの行き過ぎた「偶像排除」だけれど、熱心にそれをする人がいる一方で、そこまで熱心でない人たちもいる。彼らはだいたい新米クリスチャンで、牧師や先輩たちの指導(圧力?)によって、その手の「偶像排除」をさせられているのである。きっと疑問に感じることもあると思うけれど、初めからそう教えられている訳で、もうどうすることもできない。

 彼らがしているのは、ハッキリ言って痩せ我慢である。たとえばテニスが好きで、週末はテニスをしたいのだけれど、偶像崇拝だと言われるから諦めなければならない。挙げ句の果てには「偶像を断ち切れ」ということで、大事にしていたラケットやウェアを捨てさせられる。それで「神様に喜ばれた」と納得させられる。もちろんそんなことで神様が喜ぶはずがないけれど。

 けれどそういう痩せ我慢も、続けば自分のものになる。テニスを捨てさせられたその人は、やがて「こんなに苦しんで俗世を捨てた自分は本物のクリスチャンだ」と思うようになるだろう。そして自分が捨てさせられたように、今度は後輩たちに大事なものを捨てさせるのである。それも、正しいと思って。
 そうやって、どこかおかしい偶像排除の慣習が連鎖していく。まさに合掌。

1 件のコメント:

  1. 確かにこういう人はいます。新興宗教系プロテスタントにはとくに。
    いつも思うのですが、この世の楽しみを捨てて云々という生き方をよしとするなら、そもそも出家制度のないプロテスタントは合わないということなのではありませんか?
    そのような考えでいるのでしたらぜひ修道院にお入りくださいといいたくなります。「私は自分の個人的な楽しみを宗教のためにすべて捨てました」と威張っているのなら、ちゃんと出家すべきなのです。在家ではそういった生き方は徹底できません。
    瀬戸内寂聴さんは遠藤周作のすすめでキリスト教も勉強しましたが、最終的には仏教を選び、今東光さんの導きによって出家しました。キリスト教で出家していたら(もっとも年齢的に不可能ではありましたが、もしそれがOKだったらと仮定しての話ですが)、彼女は小説を書くことができず完全に筆を折ってしまっていたでしょう。瀬戸内さんは「お釈迦様は私に小説を書くことだけはお許しになってくださったの」といっています。
    そして(ここからが重要なことですが)、瀬戸内さんの寂庵には「自分も瀬戸内さんのように出家してしまいたい」と相談する人がよく訪れるそうですが、彼女が今まで相談を受けた中で出家しても大丈夫と思った人はたった一人しかいなかったといいます。
    その人は子供も独立し、資産家で家作を多く持っていて家賃がきちんと入ってきている身分だったのです。それ以外の人は全員だめでした。宗教で生活できないかという話だったからです。瀬戸内さんがいうには「私が出家できたのは、養うべき家族を持たず、かつ宗教で生活しなくてもいい身分だったからです」と。
    修道院では何らかの仕事をしています。イエズス会なら上智大学等の学校を運営しているのはよく知られていますが、歓想会系の修道院でもトラピストのようになんらかの労働をしています。つまり彼らは出家してかつ世俗の労働をし、宗教で生活することは基本的にはないということなのです。
    ひるかえって新興宗教系プロテスタントはどうなのでしょうか?出家制度はありませんので、養うべき家族を持ち、かつ「世俗の労働をするのは賤しいことで神の御心に反する。宗教専業で生活すべきである。よって信者はこっちの生活費や子供(子だくさんが多い)の教育費を負担すべきである。ちなみに子供たちはお留学する予定ですのでそのつもりで」という・・・・

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