礼拝に「角笛」や「竪琴」は必要か、という話

2014年12月15日月曜日

「ダビデの幕屋の回復」に関する問題

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「ダビデの幕屋」の礼拝に通ずる行為として、「角笛を吹く」とか「竪琴を弾く」とか「旗を振る」とかいうのがある。海外から角笛や竪琴を輸入したり、旗を手作りしたりして、そういう礼拝等で使うのである。角笛なんかはいかにもイスラエルっぽくて、なんだか聞くだけで啓示が来そうである(注・あくまでそんな気がするだけ)。
 
「ダビデの幕屋」の礼拝をする教会や団体のHPを見ると、そういう場面の写真が載っていたりする。色とりどりの旗やら角笛やら竪琴やらを見ると、私は「K福のK学」のO川さんが壇上で翼のついた衣装で説教している写真を思い出した。
 
 角笛も竪琴も旗も一応意味があって、「主の臨在をもたらす」とか「主の勝利を宣言する」とかイロイロある。礼拝ではそれぞれにふさわしいタイミングで使われる。けれど盛り上がってくると、あちこちで叫び声が上がり、あらゆる楽器が大音量になり、それにつられる形で角笛も竪琴も鳴りまくるから、もう何が何だかわからない。さっきの意味はどこへやら。おそらく本人たちは夢中で、「主の臨在がすごすぎて圧倒された」とか言う。
 
 基本的に礼拝は自由だし、何を使ってもいいと思う。ある器具を使った礼拝が受け入れられ、べつのある器具を使った礼拝が受け入れられない、ということはない。だから角笛でも何でも使ったらいい。けれど問題は、角笛や竪琴が「主の臨在を呼ぶ」とか、「深い啓示をもたらす」とか、そういう物質依存の礼拝に陥ることだ。角笛がなければ臨在を感じない、竪琴の音がなければ啓示が受けられない、としたら、何もない無人島に流れ着いた人は礼拝できない。
 
 それに竪琴の音で神様が来られるのだとしたら、その神様はゲームなんかに出てくる召喚獣みたいなものだ。人間にいいように使われる存在でしかない。あるいは角笛のない教会に神様が来られないとしたら、その神様は不公平だ。物質を見て「来る・来ない」を判断していることになるからだ。
 
 そういうのはユダヤ主義というより、神秘主義であろう。あるいは香とか焚いて悪魔を呼ぼうとする魔術と基本的に同じで、オカルトとも言える。いずれにせよ新約聖書が言う礼拝者とは駆け離れている。旧約聖書に回帰し、新約聖書を廃棄しているようにも思える。
 
 彼らは自分たちこそ真の礼拝者だと自負しているけれど、真の礼拝者は物には頼らない。盛り上がったかどうかで礼拝の正否を決めない。物を使って礼拝しても、それが絶対必要だとは言わない。

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