クリスチャンは何を「増やす」べきなのか

2014年12月14日日曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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 クリスチャンを奉仕に駆り立てる牧師(あるいは教会)がいる。先日も書いた「奉仕・訓練・成長」を強調するタイプである。その根拠を聖書に求めて、たとえばマタイの福音書25章を引用する。こんな話だ。

(天国のたとえとして)ある人が、3人のしもべに能力に応じた額のお金を預ける。旅から帰ってくると、3人のうち2人は商売でお金を増やしていた。残る1人は何もせず、預かったままの額を返した。先の2人は褒められた。残る1人は怠け者だと叱責された。

 この話から、「何もしないのは怠惰の罪だ」と持って行く。だからクリスチャンは一生懸命働かなければならない。自分の能力を最大限発揮しなければならない。どんな過密スケジュールにも文句を言ってはならない。となる。

 けれどそれは以前にも書いた通り、ただの仕事であって、「霊的成長」とは関係ない。仕事を通して人格的に整う部分はあるかもしれないけれど、そういうのを「霊的」と捉えるのは的外れであろう。

 では、上記の箇所はどう捉えたらいいのだろうか。商売をやってお金を増やした人は褒められて、そのまま返した人は叱られた。これは私だけの感覚かもしれないけれど、預かったものをそのまま返して何が悪い、とは思う。けれど現に聖書では叱られている。これをどう捉えたらいいのだろうか。

 少なくともお金の話ではない。でないと全ての人がお金で何かしなければならなくなってしまう。
 では「能力」だろうか。できることをやらない、できるのにやらない、というのは確かに責められる気もする。能力なら皆それぞれ違うし、量的にも差があるから、文中の5タラント、2タラント、1タラントという額の違いとも通じる。

 けれどだとしたら、「増やす」とは一体どういうことなのか。能力を開花させ、より発展させることだろうか。
 現代社会において何らかの能力を伸ばそうと思ったら、それは主に職場での話になるだろう。それぞれの職業には必要なスキルがあるだろうし、長年やることで熟練していくのだと思う。けれどこの場合、職業によっては何年かで頭打ちになる気がする。

 あるいは「人格」かもしれない。人格的な成熟を怠けた者が叱られる、というのは理解しやすい。キリスト教精神の一つである「愛」も、人格に関する事柄であろう。また人格的成熟とは、取り組もうと意識しなければなかなか取り組めないし、取り組まないと成らない。あるいは不測の不幸に見舞われて、大変な苦労をし、その中で自ずと人格が整っていく、ということはあるかもしれない。それは半ば強制的な人格矯正であろう。

 またあるいは、それは「時間」かもしれない。人生に与えられた時間をどう使うか。無為に過ごして終わらせるか。何かに取り組んである程度の結果を残すか。そうだとすると、私たちはただ生きているだけではダメだ、という話になるだろう。毎日働いて、休んで、遊んで、そうやって少しずつ年を取り、やがて死ぬ(キリスト教的に言うと「肉体が朽ちる」)。その時、何が残っているだろうか。
 あるいは、何かが残っていなければダメだろうか。

 以上、脈絡もなく書いたけれど、特に答えはない。
 これはべつに聖書解釈をしている訳ではない。いろいろな可能性を提案してみただけだ。正しい聖書解釈を探したい人、定義したい人には、何の役にも立たない。
 けれど、「聖書はこう言っているんだからこう生きろ」と一方的に決めつけられている人に、考える材料を提供できたとしたら幸いなことだ。

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