クリスチャンを奉仕に駆り立てる牧師(あるいは教会)がいる。先日も書いた「奉仕・訓練・成長」を強調するタイプである。その根拠を聖書に求めて、たとえばマタイの福音書25章を引用する。こんな話だ。
(天国のたとえとして)ある人が、3人のしもべに能力に応じた額のお金を預ける。旅から帰ってくると、3人のうち2人は商売でお金を増やしていた。残る1人は何もせず、預かったままの額を返した。先の2人は褒められた。残る1人は怠け者だと叱責された。
この話から、「何もしないのは怠惰の罪だ」と持って行く。だからクリスチャンは一生懸命働かなければならない。自分の能力を最大限発揮しなければならない。どんな過密スケジュールにも文句を言ってはならない。となる。
けれどそれは以前にも書いた通り、ただの仕事であって、「霊的成長」とは関係ない。仕事を通して人格的に整う部分はあるかもしれないけれど、そういうのを「霊的」と捉えるのは的外れであろう。
では、上記の箇所はどう捉えたらいいのだろうか。商売をやってお金を増やした人は褒められて、そのまま返した人は叱られた。これは私だけの感覚かもしれないけれど、預かったものをそのまま返して何が悪い、とは思う。けれど現に聖書では叱られている。これをどう捉えたらいいのだろうか。
少なくともお金の話ではない。でないと全ての人がお金で何かしなければならなくなってしまう。
では「能力」だろうか。できることをやらない、できるのにやらない、というのは確かに責められる気もする。能力なら皆それぞれ違うし、量的にも差があるから、文中の5タラント、2タラント、1タラントという額の違いとも通じる。
けれどだとしたら、「増やす」とは一体どういうことなのか。能力を開花させ、より発展させることだろうか。
現代社会において何らかの能力を伸ばそうと思ったら、それは主に職場での話になるだろう。それぞれの職業には必要なスキルがあるだろうし、長年やることで熟練していくのだと思う。けれどこの場合、職業によっては何年かで頭打ちになる気がする。
あるいは「人格」かもしれない。人格的な成熟を怠けた者が叱られる、というのは理解しやすい。キリスト教精神の一つである「愛」も、人格に関する事柄であろう。また人格的成熟とは、取り組もうと意識しなければなかなか取り組めないし、取り組まないと成らない。あるいは不測の不幸に見舞われて、大変な苦労をし、その中で自ずと人格が整っていく、ということはあるかもしれない。それは半ば強制的な人格矯正であろう。
またあるいは、それは「時間」かもしれない。人生に与えられた時間をどう使うか。無為に過ごして終わらせるか。何かに取り組んである程度の結果を残すか。そうだとすると、私たちはただ生きているだけではダメだ、という話になるだろう。毎日働いて、休んで、遊んで、そうやって少しずつ年を取り、やがて死ぬ(キリスト教的に言うと「肉体が朽ちる」)。その時、何が残っているだろうか。
あるいは、何かが残っていなければダメだろうか。
以上、脈絡もなく書いたけれど、特に答えはない。
これはべつに聖書解釈をしている訳ではない。いろいろな可能性を提案してみただけだ。正しい聖書解釈を探したい人、定義したい人には、何の役にも立たない。
けれど、「聖書はこう言っているんだからこう生きろ」と一方的に決めつけられている人に、考える材料を提供できたとしたら幸いなことだ。
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「何を増やすべきなのか?」とたずねられると、苦笑して「お金持ちの信者さんの数とか献金額とか立派な建物の数とか教祖様の高級車の台数とかじゃないですか?」と返答したくなる人は決して少なくはないのではないかと思うのですよ。新興宗教系プロテスタントでは繁栄の福音が流行っていますのでね。
返信削除「聖書はこう言っているんだからこう生きろ」なんてよけいなお世話だと思いますよ。なぜ生き方を勝手に規定されなくてはならないのでしょうか。
キリスト教会に足を踏み入れたこともない典型的な田舎のおばあさんと、先日ちょっと立ち話をしました。「この間デパートにいったら大きなツリーがあって本当にきれいでしたよ。もうすぐクリスマスですね。」とおばあさんが口にしたことで、多少ですがクリスマスツリーは北欧からもともときたものだそうですよ・・・という話をして、ほんの少しですがキリスト教文化のレクチャー(苦笑)をしてしまったのですが、聖書なんか触ったことすらないであろうと思われるおばあさんがこんなことを口にしたのが今も心の底に残っています。
「聖書って末端の人が勝手に解釈しちゃいけないものなんじゃないのかねえ。ほら、よく新興宗教の事件ってあるでしょ?オウムだって麻原は自分のことをキリストだって宣言していたそうだし。仏教だって創価学会みたいな新興宗教は、池田大作がお経を勝手に解釈して自分の都合のいいような教えにしているじゃない?キリスト教だってそれと同じだと思いますよ。昔ならイエスの方舟の事件がそうだったみたいだし、つい何年か前も韓国人でキリスト教の新興宗教の教祖がセクハラで逮捕されたけど、あれだって池田大作といっしょで聖書を勝手に解釈して自分の都合のいいように教えていたわけでしょ?やっぱり聖書にしろお経にしろ、自分で勝手に解釈すると恐ろしいことになるんですよ。現におかしな新興宗教団体を立ち上げる人が今だっていくらでもいるじゃないですか仏教にしろキリスト教にしろ・・・」
宗教改革の話でよく出てくる万人祭司は鉄人28号にそっくりだと思うのですね。
まともな人間だけがリモコンを手にして鉄人28号を操作していたのは昔の話で、今リモコンの操縦桿を握っているのは、まともな人間とは限らないではありませんか。日本ですら悪の勢力としか思えない人間が、リモコンの操縦桿を握っていることがよくあるわけですので、新興宗教系プロテスタントが花盛りになっている韓国など日本の比ではなく・・・
タラントのたとえをオイラが解釈すると、
返信削除1タラントって、6000人分の日当だったそうで、乱暴に掛けると
いまの日本では三千万円だというコトになるわけで、
それだけ軍資金があれば何かできないのかね?
や、いくら金持ちでも、ガチのバカや商才ゼロの人に託す金額ではないだろう、と。
案の定、24節で「上司批判」をやってるというコトは、
3番目の僕は、もっとオレに預けてくれよ、そうすればきっちり稼いできたよ、
あンたがオレを信用しなかったから、オレは何もしなかったのさ!
というコトではなかったかと、思えたわけです。
だから、そンなにわしが嫌いなら、どこへでも行けと、追い出されたわけで。
でなきゃ、やりたくない奉仕とかできそうにない仕事も、主に祈って委ねれば、
1タラントを持っているのですから、必ず成功します!という理屈は、かなり違うかなと。
ましてや1タラントは大金だったわけですから。
与えられた範囲で、マジメにやりなさい。という意味ではないかと思います。
コレに比べて、ルカ19:11-27のほうは、意味がわからないのですよ(苦笑)