クリスチャンと「偶像崇拝」・その2

2014年12月9日火曜日

「偶像崇拝」問題

t f B! P L
 クリスチャンと「偶像崇拝」について。2回目。
 
「むさぼり」も偶像崇拝だから、神様以外に大好きなもの、夢中になれるもの、自分の生涯をかけていいとさえ思えるものは、全て偶像崇拝だ、だから一切の趣味も娯楽も捨てるのが本物のクリスチャンだ、と主張する人々がいる。
 
 そういう人々の理想体は、教会に引きこもって、賛美と祈りに明け暮れることである。けれど「むさぼり」は状況によらず存在するし、「きよさ」を求める心さえも「むさぼり」になる。だから彼らの偶像崇拝を避けようとする姿勢は、どこか間違っているのではないか。というのが前回のまとめ。
 
 たとえば「10月携挙説」の人の暮らしぶりも、端から見る限り、凡ての娯楽を切り捨てて「祈り」と「礼拝」に勤しんでいるように見える。毎朝2時間祈るとか、メディア断ちとか、コンビニのパンは食べない(?)とか、それはそれは敬虔(?)な姿だ。
 けれどその結果、自分(と関係者たち)こそ本当に御心を知る者だ、真に霊的に目覚めたクリスチャンだ、と自負し、他のクリスチャン全員を「わかっていない」と断定してしまう。それは傲慢なだけでなく、「霊的」と言われる事柄に対する「むさぼり」とも言える。神を立てているようでいて、実は自分を立てているだけだ。自画自賛という貪欲かもしれない。
 
 だからいくら俗世から離れても、貪欲から離れることはできない。もちろん環境を整えることには意味があるけれど、根本的な解決にはならない。問題はいつも人の心の中にある。
 
 ところで、彼らを擁護するつもりはないけれど、その「偶像崇拝を避けよう」という態度そのものは、純粋な動機から始まったのではないかと私は思う。神様に誠実でありたい、立派なクリスチャンでありたい、みたいな動機があって、偶像崇拝の徹底排除に至ったのではないだろうか。
 
 またそこには、「神様に自分自身を全て捧げます」という献身の思いも絡んでいるはずだ。よく「聖会」なんかの最後の方、会衆のテンションがクライマックスになったところで、「神様に全てを捧げて仕えます!」なんてみんなして叫ぶシーンがあるけれど、あの感覚だ。
 
 余談だけれど、この「全て捧げます」という献身的、あるいは殉教的、あるいは英雄的なフレーズは、クリスチャンにとって殺し文句だ。普段あんまり熱心でないクリスチャンも、ああいう盛り上がった場でそう言われると、「よし、オレも!」みたいな気分になって口が滑ってしまう。それでみんなで「主よ、捧げます!」コールになる。
 
 話を戻す。「全て捧げます」というフレーズには、「全ての不純物を取り除きます」という意味も含まれている。だから偶像とか貪欲とかも、自分の中に残っていてはならない。そういう視点で自分自身を吟味してみると、たとえばテニスが好きだとか、テレビドラマが好きだとか、音楽が好きだとか、そういう「偶像っぽいもの」が見つかる。それで「これはいけない、捨てなければ」という話になる。
 そして、山奥の修道僧みたいな暮らしを理想とするようになる。
 
 けれど、この「全て捧げます」も自己中心的な主張だ
 もちろん私たちがどれだけ捧げたか、あるいは捧げなかったか、神様は知っている。そしてたとえわずかでも、神様は尊んで下さる。
 しかしそれは神様の愛ある配慮であって、あくまで量的には、私たちの最大限も最小限も、神様から見たらゼロと同じだ。私たちの精一杯の努力なんて、神様には何の役にも立たない。人間が創られたのは創世の最後であって、そもそも何かの役に立つようにと意図して創られたのではない。
 
 そういう視点で考えると、この「全てを捧げます」には、「だから自分は役に立つはずだ」という心理が前提となっているのがわかる。「全部捧げます。だから何かやってやる」みたいな。
 
 そういう意図があっての偶像崇拝完全撤廃だから、結局手前勝手なものになる。テニスはダメ、ドラマはダメ、音楽はダメ。神様が創られたものは「非常に良かった」はずなのに、彼らにかかると「全部ダメ」になってしまう
 
 だからそれは前回も書いた通り、行き過ぎた禁欲でしかない。「敬虔」を装ったガマン大会とでも言うべきか。
 
 そういうガマン大会が好きな人は、ぜひ彼らと一緒に「教会引きこもり」をしたらいいと思う。私はこの世界の美しいもの、素晴らしいもの、良いものをできるだけ沢山観るつもりだけれど。

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