【雑記】自分にとって大事なこと・指定された献金額・態度急変の理由

2014年12月30日火曜日

キリスト教信仰 雑記

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 ちょっと気になっている、けれど一つ一つは記事にするほどでもない雑感の詰め合わせ。

・自分にとって大事なこと

 先日シリーズで書いた映画『神は死んだのか』の中で、主人公とガールフレンドが言い争う場面がある。
 主人公は信仰を守る為に無神論者の教授と対決しようとしていて、二人の将来を潰されたくない彼女はそれに猛反対する。それで激しい言い争いになって、主人公もついに声を荒くしてこう言う。「これは僕にとって大事なことなんだ」

 奇しくも劇中で、まったく同じ台詞が再び出てくる。
 中国からの留学生が、主人公と教授の対決を見ているうちに、神の存在を信じるようになる。そして中国にいる父親に電話でそれを伝えるのだけれど、取り合ってもらえない。逆に「バカなこと言ってないで勉強しろ」とか怒られてしまう。そこでこの台詞を言うのだ。
「これは僕にとって大事なことなんだ」

 聞いてもらえないから一生懸命伝えようとする、という意思は理解できる。クリスチャンとして信仰を伝えたいという気持ちも理解できる。けれど対立関係にある相手、つまり自分の信仰に理解を示さない相手に対して「これは自分には大事なことなんだ」と主張するのは、いささか自分勝手な気がした。つまり自分にとって大事なことはこれだと相手にぶつけるだけで、相手が言わんとすること、相手が大事に思っている価値観を無視することになるからだ。クリスチャンの立場で考えれば当然の台詞に思えるかもしれないけれど、これはよく考えるとフェアでないように思う。

 キリストの弟子たちが伝道旅行に出た際、受け入れられなかったら「足のチリを払いなさい」と命じられた。つまり福音を受け入れない者は祝福されない、という意味だ。そのメッセージの印象が強いせいか、「伝道はするけれど結果は知らん」「とにかく伝えるだけ、あとは祈るだけ」という傾向のクリスチャンが多いような気がする。
 もちろんその主張は正しくて、私たちは未信者に無理矢理信じさせることはできない。伝道の結果の責任を負わされたら大変なことになってしまう。けれどそれに傾きすぎると、「聖なる真理を伝える私たちは正しい。受け入れない連中は愚かだ。私たちの信仰が唯一絶対正しいのに」みたいな原理主義にもなってしまう。そこには相手の立場に立ってみるとか、思いやってみるとか、そういう歩み寄りの姿勢がない。

「これは自分にとって大事なことなんだ」と言って相手の気持ちを理解しようとしないのは、そういう原理主義と同じではないかと私は思う。

・指定された献金額

 ある教会の年配のクリスチャンが、牧師に献金を申し出た。まとまったお金が入ったから、教会の必要の為に捧げたい、だから今現在教会にどんな必要があるのか教えてほしい、というような申し出だった。彼は非常に敬虔で、紳士的で、教会のために喜んで捧げようとしていた。
 それで牧師が感謝しつつ答えた。今○○をするために××を購入する必要がある、だから△△万円捧げて下さい、と。
 彼は確かに教会の必要について知りたくて、可能な範囲でそれに捧げようとしていた。けれどまさか金額まで指定されるとは思っていなかった。献金する上でもっとも大切なのは犠牲を犠牲と思わない献身の心であって、金額は関係ない、とその牧師に教えられていたからだ。

・態度急変の理由

 ある教会が、礼拝をリアルタイムでネット配信しはじめた。しばらく経ったある日、ネット配信の担当者が間違えて、礼拝前のリハーサル時から配信を始めてしまっていた。リハーサルでは牧師が奉仕者たちをガミガミ怒り、怒鳴り散らしていた。
 途中で担当者が気づいた。「すみません、もうネット配信しちゃってました」
 牧師の表情が変わった。「え、今のネットに流れてた?」
 この「今の」が何を指すのかよくわからないけれど、牧師は急に笑顔で「なんだよぉ、これじゃ俺がすごい悪者みたいじゃん、なあ?」と猫なで声を出した。
 その後のリハーサルが和気あいあいと進んだのは言うまでもない。もっとも担当者は気づいた時点で配信停止していたので、そこで態度を変えても意味がなかったのだけれど。

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