2014年12月27日土曜日

神は死んでないけれど、問題はそういうことではない。映画『神は死んだのか』から。

 先日も取り上げた映画『神は死んだのか』を観てきた。
 
 あまり前情報を入れずに観たのだけれど、コッテリしたクリスチャン映画であった。系統としては Facing the Giants とか Fire proof とかに似ている。試練に遭遇した主人公が、神に信頼しつつそれに挑み、苦境の中に光明を見出して、最後はハッピーエンドという定番の流れである。映画として卒なく作られていて、感動ポイントも用意されている。ご都合主義なところもあるけれど、クリスチャン映画として私は素直に楽しめた。
 
 それと同時にイロイロ考えさせられた映画でもあった。映画は映画で良いとして、この話を現実の教会事情と照らし合わせてみると、ハッピーエンドだから良かったでは済まされないところもある。そういう危うさを感じた点を、いくつか取り上げてみたい。

※ネタバレ含むので未見の方はご注意を。
 
・信仰を貫くためなら全てを捨てる
 
 大学の哲学クラスのラディソン教授が、最初の授業で生徒全員に無神論者だと告白するよう強要する。生徒らは、単位を落としたくないから「神は死んだ」(God is dead)と書いて提出する。しかし主人公のジョシュは真面目なクリスチャンなので書けない。そして教授に目を付けられて、講義の中で神の存在を証明する羽目になる。
 
 信仰のゆえ、苦境に立たされた訳だ。証明できなければ単位を落とすことになるから、親もガールフレンドも反対する。けれどデイブ牧師からマタイ10章32節(わたしを人の前で認める者は・・・)を教えられて、挑戦することにする。彼女は離れて行った。
 
 これは「踏み絵」と同じだ。信仰を捨てるか、単位や彼女や安定を捨てるか、極端の二者択一である。
 その前にこのパワハラ教授を訴えるという手がある気がするけれど、ジョシュは信仰を選ぶ。それ自体は素晴らしことだと思う。けれどクリスチャンにとって正論である「全て捨てても信仰を選ぶべき」は、昨今の教会においては危険な香りを放っている。「主がこう言われる」という牧師の一方的な主張によって信徒が振り回される、その根拠となるからだ。
 
 たとえば仕事を辞めて収入がなくなっても主に献身すべきだ、命を懸けるのが献身だ、という踏み絵を突き付けられることがある。真面目な信徒らは「すべては主のために」と思って「牧師が言う信仰」を選んでしまう。
 そういう理不尽な決断を後押しする根拠として、この映画が使われないことを願うばかりだ。
 
・主はクリスチャンをこと細かく導いている
 
 ジョシュが通う教会のデイブ牧師は、来米した友人のジュード牧師を連れて観光に行こうとするが、なぜか車の故障が重なって行けない。そうやって足止めを食っている間に信徒らの危機に遭遇し、彼らを助けることになる。
 そして最後、ついに車で出発というところで、目の前でラディソン教授が事故に遭う。死にゆく教授に牧師は福音を語り、信仰に導く。教授は息を引き取る。
 そこまで観て、デイブ牧師の車が何度も故障したのはこの為だったとわかる。つまり、神が導いていた、という訳だ。
 
 これ自体も素晴らしいことだと思うけれど、やはり危険臭がする。
 昨今の教会では、何でもかんでも「神の導きだ」と決めつけられる傾向がある。たとえば車のナビが故障して、目的地でない場所に着いた。「これは神がここで霊の戦いをしろと言っているのだ」ということことで、「異言」の祈りが始まってしまう。
「神の導き」はあると思うけれど、それが単に自分軸の話、自分から見た景色に終始してしまうとしたら、それは思い込みでしかない。
 
・知り合いみんなにメールを送ろう、「神は生きている」と
 
 オーストラリアのバンド、ニュースボーイズが本人役で出ていて、最後のライブシーンに登場する。そこでGod's not deadを歌うのだけれど、こんなMCが入る。「この曲の最中、知り合いみんなにメールしてくれ。『神は生きている』と。ここにいる皆が送ってくれれば、同時に何百万人にも伝わることになる」
 それで会衆は嬉々としてメールを送る。そこで映画は終わるのだけれど、最後に「あなたもこのムーブメントに参加して、メールを送りましょう」みたいなテロップが流れる。盛り上がって終わるし、感動もしているから、良いことのように思える。「熱心な」クリスチャンならその場で送ったかもしれない。
 
 けれどこの場面だけがどうも残念である。正直な話、このテロップで私はそれまでの感動が一気に覚めてしまった。
 アメリカのクリスチャン事情は知らないけれど、これが日本だったらどうなるか。
 クリスチャンの知り合いから突然メールが来て、「神は生きている」とだけ書かれている。たぶん大抵の人は「何言ってやがる」となるだろう。狂信的だと思うかもしれない。そうでなくても好印象は持たれないだろう。
 
 この行為は、クリスチャンなら正当性があると思うかもしれない。けれど送られる側の気持ちを考えていないというか、独善的というか、どこか手前勝手な行為に思える。「これはいいものだ。だから提供してあげよう」という上目線の、余計なお世話な気がする。
 
 と、最後の場面には苦言を呈してしまったけれど、映画として良かったと私は思う。
 無神論者がどんな主張をして、クリスチャンがどんな反論をするのか見たかったし、そのへんも勉強になった。次回はそれについて書きたいと思う。

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