2014年3月31日月曜日

「終末」が簡単に想像できるものなら誰も苦労しない、という話

『レフトビハインド』(Left Behind)というアメリカの小説がある。聖書の黙示録をモチーフにした、いわゆる「終末パニック小説」だ。長いシリーズになっており、2002年頃から日本でも順次刊行されている。聖霊派クリスチャンの間では、けっこう話題になった。私も最初の一冊は読んだ。

 内容は、終末論でいう「患難前携挙説」にのっとっている。つまり終末の患難時代が始まる前に「携挙」が起こり、全世界で同時に、「敬虔な」クリスチャンらが姿を消す。主人公らは携挙されず地上に残された人たちで、世界規模で起こる様々な患難を、目の当たりにしていく。

 物語は、著者が解釈した黙示録の流れに沿って展開していく。もちろんその解釈が正確かどうかという議論はあって、キリスト教界では賛否両論あるようだ。けれど、エンターテイメントと割り切って読む分には、全然問題ないと私は思う。それに話の時代設定も、今となっては若干古い「近未来」だ。あくまで、「今この時代に終末が始まったらどうなるか」という空想を楽しむ作品だと思う。それで読者が「クリスチャンとしてちゃんと生きなきゃ」と思うとしたら、それはそれで悪いことではない。
 もっとも私個人は、続きを読もうとは思わなかったけれど。

 本書の影響か、あるいは昨今の急速なグローバル化・IT化のせいかどうかよくわからないけれど、この頃から、終末関連の話題をちらほら聞くようになった気がする。特に多いのが「獣の刻印」についてだ。
 
「獣の刻印」とは、黙示録13章によると、患難時代に「獣」(悪魔)を拝む人々に与えられる、何らかの「しるし」だという。「666」という数字とも書かれている。その刻印を受けない者、つまりクリスチャンらは、一切の売買が禁止される等の迫害に遭うことになる、という。
 この刻印が、現代の技術で言う「生体埋込チップ」の類ではないか、という話を何度か聞いたことがある。クレジットカード番号や携帯電話番号、日本で言えば基礎年金番号などの個人情報がチップに登録され、それを埋め込まれた人間は、政府によって全ての行動を管理される。そして諸政府の背後に働く「獣」が、チップを「獣の刻印」として巧妙に利用するようになる。するとチップを埋め込むことは「獣」を崇拝することになるから、クリスチャンは自分を管理する番号やチップには注意しなければならない、というような話だ。だいぶSFが入っているような気がする。
 その話の出所は一つだったかもしれないけれど、複数の人がそんなふうに話すのを聞いたことがある。

 私は初め、それを聞いて恐ろしく感じた。十分ありそうな話に聞こえたからだ。そしてクレジットカードも携帯電話も持たない方がいいのかも、と真剣に考えた。

 しかしよくよく考えてみると、そういうのはちょっと考えれば思いつきそうな範疇の話だ。少なくとも、まったく想像すらできないような話ではない。そしてそういう、人間が想像できるようなやり方で、悪魔が攻めてくるだろうか。もしそうなら、人間は自力で悪魔に勝てるということになる。それなら人間は堕落することもなかった。相手のやり口を想定して、先手を打つことができるからだ。神の助けも必要ない。

 もしあなたが誰かを完璧に騙そうとしたら、相手に絶対に悟られない方法を、必死で探すのではないだろうか。そして一切疑われることなく、巧妙にやり抜くことに全力を傾けるだろう。しかしもし相手が自分より上手だと知っていたら、初めから騙そうとは思わないだろう。相手が自分よりバカで、うまく騙せるとわかっているから、騙すのだ

 そういう可能性について考えることもなく、自分たちは神から特別な啓示を受けている、悪魔の策略を打ち破ることができる、とするのはいささか安直ではないかと私は思う。時代や状況から何かを想定することは簡単にできる。しかし聖書のシンプルな語りかけに耳を貸すことは、案外難しい。とかく終末に関しては、イエス・キリストが初めに警告していることに、私たちはもっと耳を傾けるべきだと思う。
人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイの福音書24章4節・新改訳)

追記)
 趣旨を誤解されても困るので追記しておくと、『レフトビハインド』という作品自体を批判しているのではない。作中の著者の聖書解釈はさておき、一つのエンターテイメントとして読むには、何ら問題ないと私はとらえている。

2014年3月30日日曜日

すごい奇跡を体験しても、それが神からのものとは限らない

「体験至上主義」について、3度目になるが書きたい。

 この信仰の在り方のもう一つの問題点は、奇跡と思われる現象・状況に対する十分な吟味がないという点だ。
 たとえば、礼拝中に気づくと床の上に何かの「羽」が落ちていて、「天使の羽が降ってきた!」と喜ぶ人がいる。けれどそれが本当に神様からのものなのか、あるいは人為的なものなのか、あるいは悪霊からのものなのか、という点が十分に吟味されていない。無条件に喜んでいる。そして自分たちの信仰を良しとしている。

 驚くべき奇跡(と思える現象)は、とかく神様からのものだと考えやすい。けれど聖書を見ると、エジプトの呪術者たちのケースのように、悪霊にもある程度の奇跡を起こす力があることがわかる(出エジプト記7章)。だから「天使の羽」やら金粉やら、香ばしい香りやら、そういういかにも聖書的、天国的に見える現象が起きたからといって、それがそのまま神様からの「お褒め」だと決めつけるのは短絡的だ。
 あるいは「神聖な教会堂なのだから、汚らわしい悪霊の力など及ばない」と言うかもしれないけれど、それはちょっと映画の見過ぎだろう。

サタンさえ光の御使いに変装しているのです」(第二コリント11章14節・新改訳)と聖書に書いてある。「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」(第一ヨハネ4章1節・新改訳)とも書いてある。それは、「天使の羽」が降ってきたように思えても単純に信じてはいけない、しっかり吟味しなければいけない、というメッセージに他ならない。

 こういうことを書くと、体験至上主義者は勇んで反論するかもしれない。
「疑うなんて不信仰です。私には神様を試すことなどできません」
 けれど、疑うのと吟味するのとは違う。吟味するのは確認のためだ。「信じる」の反対は「疑う」だろうけれど、「疑う」の反対は「吟味する」にはならない。 その反論は、話をすり替えているだけだ。
 それに、「疑ってはいけない」というのは、何の保障もない状況でも信じることが信仰だ、という文脈で語られている話である(ヤコブの手紙1章)。奇跡的な現象、霊的な現象については、上述の聖句の通り「ためしなさい」と明確に語られている。

「天使の羽」が降ってきた、ダイヤモンドが降ってきた、金粉が降ってきた、と喜んで、クリスチャンらが礼拝している。そういう彼らの目の前にいるのが光の御使いに変装した悪魔だとしたら、なんて皮肉なことだろうか。その礼拝に何の意味があるのだろうか。
 もちろん、そこに必ず悪魔が関与していると言っているのではない。ただ、その可能性は確かにあるのだから、吟味しないのは愚かなことではないか、と言っているだけだ。

2014年3月29日土曜日

神の御業を体験することは、信仰の到達点でなく、通過点でしかないという話

「体験至上主義」信仰について、もう少し考えを深めてみたい。

 体験至上主義の問題点の一つは、奇跡などの御業の「体験」を重視し、それをもってクリスチャンの成長、成熟、レベルを測るところにある。つまり信仰の最大の到達点が奇跡体験にあり、そういう体験を伴わない信仰はダメだ、とする点だ。
 またもう一つは、自分にとって良い御業、得な御業、幸いをもたらす御業だけを神に要求するところにある。苦しみや不当な扱いに甘んじることを不信仰とし(あるいは悪魔の攻撃とし)、繁栄することこそが正しい信仰の証だとする(そういう意味で、繁栄の神学に通じるところがある)。

 もっとも、すごい体験をすることがクリスチャンの成長の証だとすること自体は、頭から否定できない。たとえば人格が聖書的価値観によって矯正され、より良く変化していくことも奇跡の一つとするなら、それはクリスチャンとして長く信仰生活を送っていなければ起こりにくいからだ。信仰に歩んだ結果、次第に人格的に成熟していく、ということはある。
 また癒しや預言が今日もあると前提しての話だけれど、それらを積極的に行使しようとするなら、聖書的原則を学んでいることや、聖書全体を通読していることなどが大きな助けとなる。そしてそれは一朝一夕にできるものではない。そういう意味で、信仰生活の長さと体験の有無は、ある程度の比例関係にあると言える(もちろん原則的にだけれど)。

 しかし体験至上主義の信仰者らが信じるような、「すごい体験=信仰のゴール=クリスチャンとしての成熟」という図式は、必ずしも成立しない。その図式は昨今のRPGに見られる「レベルアップ」の法則と同じだ。すなわち主人公のレベルが上がっていくと、もう初期の頃の敵と戦っても、絶対に負けない。そのレベルアップは不可逆的で、強くなる一方だからだ。しかし信仰とかクリスチャンの成長とかは、そう単純にいかない。同じような誘惑がいつもあり、同じような戦いもいつもある。私たちは何年たっても同じような失敗をしてしまうし、これで達成したと言えるものもほとんどない。
 その証拠に、内外の著名な牧師らや宣教師らが、不正が発覚して姿を消していくのを、私たちは何度も見ている。

 ダビデが不貞の罪を犯したのも、神によって無数の戦いに勝利させてもらった後の話だ。その意味で、むしろすごい体験をした後ほど、失敗する危険も高いと言える。
 だから神からの「良い」体験は、確かにその人が信仰に歩んだ結果かもしれないけれど、到達点ではない。むしろ通過点であるし、その後どのように歩むかの方がよっぽど重要だと思う。

 しかし牧師を神格化する教会には、そういう考え方がない。信徒にとって牧師は神に最も近い存在、神の代弁者であり、間違えたり失敗したりすることなどないからだ。罪を犯すなどあり得ない、と信じられている。
 あるいはそこまで極端でなく、「いや牧師だって失敗することはあるよ」と牧師自身がフランクに認める教会であっても、牧師が罪を犯すかもしれないという発想自体はタブーだ。また真面目で熱心なクリスチャンほど、そういう可能性について考えられない(考えたくない)。「あんなすごい体験をしている人なのだから、すごい信仰の持ち主であって、俗世的な罪など無縁なはずだ」というような考え方が、そこにはある。

 体験至上主義は、牧師やリーダーだけの問題でなく、教会のシステムや教理の体系、信徒の認識といった要素も絡み合って成立している。牧師が悪意をもって操作している可能性もある。それらを解きほぐすのは、大変な作業だろう。しかしそういう現状を変えられないにしても、その問題意識を持たないよりは、持っている方がはるかに良いだろうと私は思う。

2014年3月27日木曜日

神に良いものだけを要求する、「体験至上主義」信仰の卑しさ

「体験至上主義」信仰について私は何度か書いているけれど、まだまだ書く必要があると思っている。

「体験至上主義」信仰は、一にも二にも「何が起こったか」「神がどう働かれたか」という体験を重視している。彼らの主張は「神は今も生き生きと働いておられる」というもので、それ自体を私は否定しないけれど、彼らの場合「だから今日も素晴らしい奇跡の御業が起こる」と続く。つまり毎日毎日、神の奇跡的な何かが起こることが、「神が生きて働く」ことだと信じているのだ。だから、何も起こらないとしたら、その信仰生活は、彼らにとって「死んでいる」ということになる。

 ではそう言う彼らが日々どれだけ素晴らしい体験をしているかと言うと、これが判然としない。礼拝でバカ騒ぎをしてハイテンションになったのを「主に触れられた」と言い張ったり、癒しの祈りをしてもらうと「良くなった気がする」と超ポジティブにとらえたり、皆で頑張って仕上げた仕事を「主の御業だ」としたりする。結局神様がどう奇跡的に働かれたのか、という点で明確に証明できないことがほとんどだ。その多くは感覚的で、気分次第、見方次第で何とでも変わり得るものばかりだ(もちろんそうでないこともあると私は信じているけれど)。

 確かに、聖書には神様の数々の奇跡が記されている。そういう奇跡を見たいと願うのは人間の性だし、神様を信じるクリスチャンであれば尚更だろう。ペンテコステの日以降のペテロやパウロの活躍に憧れるのも理解できる。けれどそういう聖霊体験を求めて、上記のような判然としない体験モドキを並べ立てるのは何とも痛々しい。

 それにその手の聖霊体験が、信仰のゴールなのではない。パウロが書いている通り、どこまで経験したから信仰を達成できた、ということにはならない。何をどれだけできたかで信仰を測る考え方は、律法主義だ。聖霊体験をした後にそれを裏切ったサウロの例もある。神様がして下さることを体験できるのは確かに素晴らしいことだけれど、それより自分が神の前にどのような存在であるのか、どう生きるのか、どう変えられていくのか、ということの方が、よっぽど重要だと私は思う。そして今までの自分にできなかったこと、たとえば困っている人に声をかけられないとか、どうしてもある種の人に優しくできないとか、そういうことができるようになることだって、神の御業の立派な体験だと思う。

 聖書の登場人物一人一人の人生を見てみると、神の華々しい奇跡の連続の中を生きた人などいないのがわかる。むしろ彼らの人生は長いこと不遇だったり、孤独だったり、誰の目にも留まらない地味なものだったりした。大きな御業を体験したペテロやパウロの最期はどうだっただろうか。聖霊に満たされたステパノの最期は、悲惨なものではなかったか。
 彼らはその人生のある時期、確かに素晴らしい神の御業を体験したけれど、それは彼らが歩むべき行程の一部分でしかなかった。それより神様は、良いも悪いも含めて、彼らの人生の全てに働いておられる。何が起こっても起こらなくても、本人がどう感じても感じなくても、その人生の軌跡そのものが、神の御業の結果なのだと私は思う。

 そういう意味で、「体験至上主義」の信仰者らは、奇跡の御業や癒しの御業など、良く見えるもの、きれいなもの、聞こえの良いもの、得なものだけを求めていると言える。つまり神様に、良いものだけ要求している。しかしそれは残念ながら、キリストの道に歩むことではない。

キマジメくんのクリスチャン生活 第23話

集会の始まりを告げるブザーが鳴り、舞台は暗転、会場は真っ暗になった。同時に、会衆は水を打ったよう静まり返る。「異言」を合唱していた婦人らも、ピタリと止めた。しばらく、暗闇と沈黙が続いた。
暗闇の中、唐突にドラムのリズムが始まった。その何小節か後に、ベースの低音が加わった。徐々に照明がつき、舞台上の人影を映し出す。会場から手拍子が起こった。あちこちで口笛が吹き鳴らされ、「ハレルヤ!」という声も起こった。何やらすごいことが起こりそうな雰囲気だ。キマジメくんは興奮して、その様を見つめた。
次の瞬間、キーボードとギターが派手なメロディを奏で始め、照明が一気に輝いた。同時に中央に立つボーカルが、両手を挙げて「ハレルヤ」と長く叫ぶ。とたん、会衆は総立ちになって、歓声をあげた。楽器の音と歓声が一体となって、会場を満たす。
キマジメくんは腹の底から震えた。音の洪水が地響きとなって、床から足に伝わってくる。鳥肌が立ち、涙が出そうになった。これが主の臨在か、と感激した。やはり千人規模の集会は違う。特別な何かがある。

ボーカルが「主を賛美しましょう」と叫んで、ハイテンポの賛美を歌い出す。会衆は飛び跳ねたり叫んだり、手拍子を打ったり踊ったり、最初からあらん限りの力で神様を賛美しはじめた。キマジメくんはその勢いに圧倒され、ただただ手拍子を合わせるだけだった。

その後何曲か、大音響の賛美が続いた。最後はメロディアスな、しっとりした賛美だった。ボーカルが「手を挙げて賛美しよう」と言うと、会衆は残らず手を挙げる。そして方々から、鼻をすする音が聞こえてくる。キマジメくんの隣の若い男性が、大声で泣き始めた。時折「主よ」と溜息のように漏らしている。
舞台上の奉仕者たちも、目を閉じて顔を上げたり、涙を流したり、眉間にシワを寄せてウンウン頷いたりしている。主の臨在に感動しているのだとキマジメくんは思った。そして自分も一生懸命賛美しなければと思い、さらに声をあげて歌った。
「主はイスラエルの賛美に住まわれる」と溝田牧師は教会でよく言っていた。「そして我々は霊的イスラエルだ。だから我々の賛美に、主はご臨在下さる」
今この会場を包んでいるのが、その主の臨在だとキマジメくんは確信した。そして人が大勢集まっている分、臨在は強くなっていると思った。

やがて賛美は終わり、ピアノの音色だけが残った。ボーカルは感極まった声で言う。
「今、主の前に静まりましょう。そして、主の御顔だけを慕い求めましょう」
会衆はまた静まり返った。皆、頭を垂れて、目を閉じている。隣の男性はまだ嗚咽しながら、「主よ、主よ」とつぶやいている。よっぽど臨在に浸っているのだろうと、キマジメくんはうらやましく思った。

しばらくの沈黙の後、ボーカルは神妙な面持ちで口を開いた。
「皆さん、愛する兄弟姉妹、今、主が悔い改めを求めておられます。皆さん、今、私たちは悔い改めの時間を持ちましょう。それぞれ主に祈り、示されたことがあるなら、主の前に悔い改めるのです」
するとあちこちから、また鼻をすする音がしはじめた。跪いて泣く人もいる。「主よ、許して下さい」という言葉が、方々から聞こえてくる。集会の前に「異言」で合唱していた婦人らのあたりからは、何事かと心配になるくらいの号泣が聞こえてくる。キマジメくんは気になってそちらを見た。婦人らが顔をクシャクシャにして、泣きわめいている。

キマジメくんは自分もそのように悔い改めなければならないのかと思ったけれど、特に思い当たることがなかった。とはいえ、「人は気づかぬうちに罪を犯しているものだ」と溝田牧師が普段から言っているから、自分も何か罪を犯しているのだろうと思う。けれど、思い当たらないのに悔い改めても、真実でないような気がする。
キマジメくんはとりあえず、自分に罪があるなら示して下さい、と祈ることにした。
しかしそう祈りだしてすぐ、舞台上のボーカルが、「皆さん、」と話し出した。キマジメくんは中途半端な気持ちのまま、そちらに注意を向けなければならなかった。どうやら悔い改めの時間は終わったようだ。

ボーカルが「私たちの罪は十字架によって全て許されました。ハレルヤ!」と叫ぶと、今まで涙に濡れていた会衆も、大歓声でそれに応えた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年3月26日水曜日

主の御顔を慕い求めづらい、「主の御顔を慕い求める」集会

「主の御顔を慕い求める」という趣旨の集会や大会が超教派的に時々開かれる。集まった人々は熱心に賛美したり祈ったり、大先生の「恵まれる」メッセージを聞いたりする。その様子を写した写真や動画が後日、HPやブログに掲載されることがある。見ると、皆の熱心に「主の御顔を慕い求める」様子がうかがえる。

「主の御顔を慕い求める」というのは、要するに御心を求めるとか、神の導きを求めるとか、神様にだけフォーカスを当てるとか、そういうどちらかというと内向的なテーマであると思う。そういうテーマで集会を開くのはいかにも信仰的かもしれない。しかし経験者として言えるのは、人が大勢集まった中でどれだけ内向できるかは疑問がある、ということだ。

 たとえば賛美奉仕者は、(そういう集会ばかりではないけれど)会衆への奉仕が優先されるうえ、目立つ立場にあり、内向するには妨げが大きい(全くできないとは言わない)。メッセンジャーも同様だ。その他の奉仕者も、基本的に同じことが言える。

 では奉仕される会衆は内向できるかと言うと、そうでもない。
 一番の妨げは、周囲に大勢の人間がいるという点だ。どうしても、まわりの一挙手一投足が目に入ってきて、影響を受けない訳にいかない(その度合いは人それぞれだろうけれど)。特に講壇に立つメッセンジャーの影響は大きい。メッセンジャーが壇上で跪いて長々と祈るのを見せられたら、人前でああいう風に祈るのが正しいものだと思ってしまう(私はそれは謙遜に見せるパフォーマンスだと思っている)。

 また、「主の前に静まりましょう」ということで、会衆全体で一定時間、黙想みたいに静まり返る時間を持つことがある。それは私に言わせれば強制黙想だ。形として黙想することはできるけれど、人に言われたタイミングで、どれだけそれに集中できるだろうか。またそれは祈りに集中している振り、語られている振りにもつながる。
 ある個人が本当に主の前に静まっているかどうかは二の次で、「皆で静まっている」というパフォーマンスを、主催者なりメッセンジャーなりがしたいだけだ。

 第二の妨げは、それが集会であるという点だ。賛美の時間、祈る時間、メッセージを聞く時間、皆で静まる時間、皆で泣く時間、皆で馬鹿騒ぎする時間というのがだいたい決められている。そういう集会のプログラム進行に従うことと、自らの内面に内向していくこととは、単純に考えて相反している。だから内向をうたった集会なのに、全然内向できないまま終わる、ということがある。特に上記のようなプログラム構成であるなら、強制黙想以外に、静まって「主の御顔を慕い求める」時間などない。

 主の御顔を慕い求めるなら、通常なら個人の時間で個人的にすべきだと私は思う。なにも集まって大掛かりにすることではない。もちろん国全体とか地域全体とかで、危急の必要のために祈ったり静まったりする時はあるかもしれないけれど。
 
 主の御顔を慕い求めるために集会を開いたけれど、結局のところ誰も御顔を慕い求める時間を持てず、全員でそういう振りをしているだけで終わるとしたら、それほど馬鹿らしいことはない。それは主の御顔を慕い求める集会でなく、御顔を無視する集会であると私は思う。

2014年3月25日火曜日

何とでも言い逃れられる終末論者について思うこと

「極端な終末思想」について、3度目になるが書きたい。

 極端な終末思想の特徴は2つある。1つは、終末(主の再臨)の時期を指定しようとすること。もう1つは、終末が近いからという理由で、必死になって準備しようとすること。どちらも神様の御心を無視した、かなり見当違いな、自分勝手な行為でしかないと既に書いた。今回は、その「日時指定」に関する問題を考えてみたい。

 終末の日時指定そのものが御心に反しているのは、聖書を読んだら明らかだ。しかし終末論者たちは、ソドムの破滅を先に知らされたアブラハムの例を取り上げて、神と親しい者には終末の時期も知らされるんだ、という根も葉もない解釈を主張する。そしてそれを補強するため、イッサカルの部族のこととか、特に旧約聖書の細かい部分を持ち出してくる。

 しかしその割に、肝心の日時指定がイマイチだ。「来年か再来年があやしい」などと、かなり幅を持たせている。それでは指定したことにならない。さらに悪いのは、その曖昧な日時指定が過ぎても何も起こらなかった場合の、彼らの言い訳だ。
 彼らが言い訳として言いそうなのは、まずは問題を「霊の次元」に追いやることだ。「見えるところでは何もなかったが、霊的には大激震が起こった。君も感じたろう?」などとまことしやかに言う。霊の次元の話を持ち出されたら、ほとんどの信徒は何も言えない。
 あるいは、「我々が悔い改めたから、主が裁きを思い止まれたのだ」などと言うかもしれない。町全体が悔い改めることで神の裁きを回避したニネベの例を取り上げて、「我々の悔い改めがこの国(この世界)を救った」などと平気な顔で言いそうだ。
 しかし、そんなこと言い出したら何とでも言える。聖書の真理を好き放題に曲げているだけだ。

 そうやって言い逃れた彼らは、しばらくはおとなしくしているかもしれない。しかしいつかまた、同じようなことを言い出す。なぜなら彼らの動機は神を愛したいからでなく、神を利用して自己実現したいからだ。

 もちろん私たちは終末についてよく考えるべきだし、日ごろから敬虔な生き方をするべきだ。しかし、どれだけ敬虔な生き方ができたか、という視点にスライドしていくとしたら、それはそれで律法主義に偏ることになる(そもそも、私たちには完全に敬虔に生きることなどできない)。
 それより、素直で正直であることが求められていると私は思う。敬虔であろうとして失敗しても、ゴメンナサイと素直に神様に言えるのは良いことだ。少なくとも、終末の日時指定や準備で忙しい、決して自分の主張を曲げない終末論者たちよりは、良いだろうと私は思う。
 

2014年3月23日日曜日

極端な終末論者について思うこと

 極端な終末思想についてもう少し書きたい。

 私が言う「極端な終末思想」とは、単に終末を強調するだけでなく、終末の時期を具体的に指定したり、それに向けて実際的な準備をしたりすることだ。
 しかし聖書が終末の日時を「誰も知らない」と言っている以上、それらの行為は聖書的とは言えない。くわえて私が問題に感じるのは、「実際的な準備」の方だ。

「終末に向けた実際的な準備」と聞くと、何だか信仰的で、敬虔な行いのように聞こえる。けれど、果たして本当にそうだろうか。

 極端な終末論者の「準備」とやらを見てみると、「ダビデの幕屋の回復」を目指して24時間の礼拝をしたり、イスラエルに行ったり、ユダヤの慣習を真似たり、「預言的なアクション」をしたり、「霊の戦い」をしたり、というのがある(それら一つ一つの是非についてここでは触れない)。

 それらの行為に見られる、彼らの究極的な目標が「主との親密さ」にあることがわかる。
「終末に向けて、私たちはますます神の子として主と交わり、敏感に主からの啓示をキャッチしなければならない」と彼らは言う。そしてその結果、上記のような方法論に走る。だから要するに、彼らにとっての「終末に向けた実際的な準備」というのは、「主との親密さ」を深めることなのだ(それ自体は悪くない)。
 しかしそれは、何も終末が近いからとか、危機が訪れるからとか、そういう理由で求めるべきものではない。終末が近くても遠くても、私たちは主と親しくあるべきだ。きよくあるべきだ。いつも悔い改め、へりくだっているべきだ。彼らのように「終末が近いから身を引き締めて祈らなければ」と言うのは、たとえれば期末テストの前夜になってようやく勉強を始めた学生みたいなものだ。「ヤバイからやる」というスタンスであって、心から神様を求めているのとは違う

 またその態度は、「世の終わりはいつくるのですか」とイエス・キリストに尋ねた弟子たちのそれと同じだ。神が共におられることよりも、終末の患難がいつ自分たちに降りかかるかの方を気にしている(それは人間として当然のことだけれど)。しかしそれに対する神の返答を読めば、終末の時期についてあれこれ思い悩むのを望んでおられないのは明白だ。それよりも、いつ終末がきてもいいような生き方をすることを望んでおられる。私はそう信じている。

 終末論者が「終末だからあれをすべきだ」「終末だからこれをすべきだ」と主張するのは自由だ。神様もあたたかい目で彼らを見ておられると思う。しかし終末後の世界で、彼らが今望んでいるような待遇を受けられるかどうかは、決して保障されてはいないと私は勝手に思っている。

「現代のノア」を気取るクリスチャンについて思うこと

 極端な終末思想を持つクリスチャンや教会がある。彼らは終末の到来を危機感をもって語る。そしれそれがすぐにでも起こるから、備えなければならないと警告する。

 その姿勢そのものは間違っていない。私たちクリスチャンはおそらく誰もが、いつ終末が訪れても神の前に悔いることのない生き方をしていたいと願っている(もちろん、まったく罪がないとか失敗がないとかいう意味ではない)。

 しかしそういう極端な終末思想の中には、あきらかに排他的な選民思想が含まれている。自分たちは真実を知る数少ない、特別なクリスチャンであり、他のすべてのクリスチャンや教会らは、そのことに「目覚めていない」。だからそれが訪れた時、自分たちは救われるが、他のすべては過酷な状況に置かれて泣きをみることになる、という。
 つまり、自分たちを旧約聖書のノアだと思っているのだ。

 ノアは神から、箱舟を作るように命じられる。神は地上の生き物をすべて滅ぼすことを計画したけれど、正しい人であったノアとその家族、そして全動物をつがいで生き残らせようと考えたからだ。はたしてそれは実現して、神を敬わない、そしてノアの言うことを信じない全ての人々は、洪水に飲み込まれた。

 終末思想のクリスチャンらは、それと同じようなことが近々起こると考えている。大患難時代が訪れたとき、「備えていた」自分たちは救われるが、自分たちの警告を無視した人々は苦しめられる、と。
 しかし彼らは一体、どれだけ周囲に警告しているのだろうか。どれだけ危機感を持ち、同胞に対してその危機を語っているだろうか。私が知る限り、彼らは教会内でまことしやかに語っているだけだ。そして自分たちは特別だと、ひそかに自慢しているだけだ。
 しかしそれはかなり排他的、優越的、かつ根拠のない選民思想でしかない。自分たちは神と特別に親密で、神から直接的に真理を解き明かされていて、しかしその真理は万民が受け入れられるものではないと思い込んでいる。他の可能性について考慮していない。つまり、自分たちが間違えてる、勘違いしているという可能性については。

 彼らは「今年か来年は要注意だ」と言う(つまり2014年と2015年のことだ)。しかし数年前に、まったく同じセリフを言っていたクリスチャンらがいた。彼らがどうなったか私は知っているので、特にこういう極端な終末思想について、問題視しているのである。

「現代のノア」を気取るのは勝手だけれど、それが間違っていた場合のこともよくよく考えるべきだ。でないと、失うものがとてつもなく大きくなってしまう。

2014年3月20日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第22話

 深夜の1時9分に時計を見たことは、キマジメくんにとって偶然ではなかった。ヨシュア記1章9節を神に語られたことの確かな証であった。以来、何かにつけて、この「1」と「9」の組み合わせが目に付くようになった。
 大学の講義中、暇にまかせて開いたテキストが19ページ目だったり、学食でいつも食べるカレーライスがメニュー番号19だったり、コンビニで会計した時のお釣りが19円だったりして、キマジメくんはそのたび驚かされた。これは間違いなく、神が自分に語っているのだ。つまり献身することについて、「恐れてはならない」言われているのだ(キマジメくんはそう思った)。

 次の日曜の朝、キマジメくんは電車で埼玉県川口市に出向いていた。駅前のホールで超教派の大きな集会があり、そこでの奉仕に参加するためだった。
 今日は教会での礼拝は中止だった。教会をあげて、この集会に参加することになっていたからだ。溝田牧師をはじめ主要な教会員らは全員、そこで奉仕をすることになっていた。
 奉仕者の受付を済ませると、キマジメくんは「会場係」の腕章を与えられた。客席の誘導や献金袋の回収をするのが、主な仕事のようだった。それより驚いたのが、腕章に付けられた整理番号が「1―45」だったことだ。4と5を足すと9になる。「また1と9だ」とキマジメくんは感動した。こうやって奉仕をする自分に対して、神は繰り返し語って下さっているのだ(キマジメくんはそう思った)。

 集会のゲスト講師は、アフリカの牧師だった。キマジメくんは名前を聞いてもピンとこなかったけれど、どうやら有名な先生らしい。開場前から、たくさんの人でロビーが埋め尽くされていた。集会のポスターを改めて見ると、「死人がよみがえる!」というコピーがでかでかと書かれている。この講師はアフリカで、大勢の死人を生き返らせているらしい。
 定時に開場すると同時に、人々が客席になだれ込んだ。しかし大きな混乱はなかった。足元に気をつけて下さいと声をかけるくらいで、会場係の出番はなかった。やがて人の流れが落ち着くと、キマジメくんは奉仕者用の席につく。あとは開会を待つばかりだ。
 開会の少し前、急に声をかけられた。「キマジメくん」
 溝田牧師だった。
「ああ、先生」キマジメくんは立って挨拶する。
「奉仕ご苦労様だね」溝田牧師はやさしい笑顔で言う。「今のキマジメくんみたいに、大事な決断をする時は、やっぱり奉仕をするのが一番だと思うよ。実は奉仕されるより、する方がよっぽど恵まれるんだよ。キマジメくん、僕はいつも君のために祈っているからね。今日この集会でも、主が必ず君に語って下さると信じているよ」
「ありがとうございます」
 溝田牧師はキマジメくんの肩をポンポン叩くと、客席の前の方に歩いて行く。前寄り中央の席に、リッチ兄弟の姿があった。リッチ兄弟は手を振って溝田牧師を呼んでいる。牧師はまっすぐ歩いて行って、リッチ兄弟のとなりに座った。どうやら、席取りをさせていたようだ。
 

 開会まであと数分という時、斜め後方から、何やら奇声が聞こえてきた。思わず振り返ると、5、6人の婦人らが、となりどうし手を握り合い、一様に目を閉じて、何やら声を出している。バラバラとかダダダとか、意味不明な言葉を一生懸命に繰り返している。同じようなのを教会で何度か聞いたことがあった。どうやら「異言」らしい。
 キマジメくんは異言についてまだちゃんと教わっていなかったけれど、「本当のクリスチャン」なら語ることができるようになると聞いている。キマジメくんの教会でも、異言を話すのはまだ数人しかいない。してみるとあの婦人らは、真理を知る本当のクリスチャンであるはずだった。
 自分もいつか異言を話すことができるだろうか、献身したらできるだろうか…そんなことを考えているうち、集会が始まった。(続く)
 
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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年3月18日火曜日

教会で礼拝される「神」と、聖書の「神」との相違点

 キリスト教会は神様を礼拝するところだけれど、時折、クリスチャンらのふしぎな行為や信仰観に遭遇することがある。彼らはいたって真面目だ。しかし彼らの信じる神様と、聖書が指し示す神様とは、どこか違っているように思える。
 彼らが信じ慕う神様について、いくつか挙げてみたい。

・正しく裁けない神様
 海外のある宣教師の自伝を読んだことがある。よく覚えていないけれど、その宣教活動は苦労の連続だったようだ。
 その宣教師はある時、まだ幼い一人娘を病気で亡くしてしまった。彼は悲嘆に暮れて悔い改めた。なぜなら、どこそこへ宣教へ行きなさいと神様に命じられたけれど、それにすぐに従わなかったため、罰として娘を殺されたからだ(彼はそう信じていた)。
 私は違和感を覚えた。自分の不従順のために子どもが罰を受ける、なんて聖書のどこにも書いていない。むしろ逆のことが書かれている。人は自分の罪のために裁かれると。
 その宣教師の信じる神は理不尽かつ不条理だ。自分の要求を一方的に押し付けるだけで、正しい裁きができない。

・不公平な神様
 ある教会が賃貸物件を借りることになった。新事業を立ち上げるためだった。牧師をはじめ何人かの信徒らが祈り、物件を探し、あれこれ話し合った。最終的に一つの物件が候補に残った。さて、借りるか借りないか。牧師は言った。「神がこの物件を借りるよう私に語られました。しかしこの預言は吟味される必要がありますから、皆で一週間祈りましょう。一週間後、皆さんの意見を聞かせて下さい」
 そして一週間後、教会に行ってみると、牧師はすでにその物件を借りていた。牧師は言った。「この一週間の中で主が明確に語られました。待たずに借りるようにと。私はそれに従順して、即座に賃貸契約を交わしました」
 その牧師が言う神は不公平だ。大事なことは一人にしか語らない。しかも吟味する時間を与えない。教会の和より、事業の方が優先である。

・悪魔に勝てない神様
 ある時、3日間の超教派の集会があった。およそ3日間、ぶっ続けで賛美と祈りを捧げた。途中で何度か、ゲスト講師のメッセージがあった。
 ある講師が怖い顔で言った。「この日本を支配する『敵』は、ゴリアテの霊だ。私たちはこのゴリアテを倒さなければならない」
 会衆は大いに盛り上がって、「霊の戦い」をした。戦いと言っても、イエス・キリストの御名を宣言して悪霊を大声で叱りつけたり、やたら力強く賛美したり、手を振って「出ていけ、出ていけ」を繰り返したりするのだけれど。
 そういう戦いを終え、満足して勝利を祝っていると、最後に講師が言った。「日本にはまだ4人の『敵』がいる。私たちは日本のため、まだまだ戦わなければならない」
 つまり、彼らの信じる神様は、悪霊を放置しているということだ。なぜなら、神様には悪霊を倒す力がなく、人間が代わりに戦ってあげなければならないからだ。
 しかし聖書の神は天地万物をつくり、今も全てを治めている。悪霊でさえ神の被造物だ。彼らの神とは根本的に違う。

・ブラック企業のオーナーみたいな神様
 ある教会の献身者の一週間をみてみると、まったく休みがないのがわかる。月曜から土曜まで、朝から晩まで奉仕でビッチリだ。日曜は礼拝だけだと思ったら大間違いで、日曜こそ絶頂に忙しい。しかし休みがほしいなどとは言えない。神はクリスチャンが誰よりも多く働くことと、それによって神の計画が実現することを願っているからだ(牧師にそう指導される)。だから休むのは不信仰なことに思えてならない。いや、不信仰なのだ。

 しかし聖書の神様は、一週間の最後の日を休むように定められた。敵から逃れ、疲れ切って死を覚悟したエリヤには、パンと水と休息を与えられた(列王記第一・19章)。休むことを禁ずる神と、休ませる神。あなたはどちらを信じたいだろうか。

2014年3月17日月曜日

実現を判定できない「預言ゴッコ」

 前回は「預言」が語られる経緯について書いた。今回は「預言」が語られた結果について書きたい。

 何でもそうだけれど、「結果」というのは大切なものだ。預言は特にそうで、語られたプロセスもさることながら、それが本当に実現したかどうかという「結果」が非常に重要になる。聖書は「偽預言者が現れる」と警告しているからだ。

 預言は、未来に起こる出来事も含めて、神からのメッセージだと言うことができる。けれど、それが本当に神からのものだと証明できるのは、それが実現することによってでしかない。しかもその実現が単なる偶然でなく、普通に予測できる範囲の事柄でもないというのが条件となる。
 また、実現したかどうかが判定できない内容の預言であるなら、それが神からのものであるという証明は決してできない。もちろん聖書の言葉をそのまま引用しているなら、神の御心であるのは間違いない。けれど、それを時にかなった預言とするかどうかはまた別の話だ。

 今日語られる預言は、この「実現が判定できない預言」であることが多い。抽象的で、曖昧で、解釈の幅が広い。たとえば「人生の転機が訪れている」と言われたら、当てはまる人は少なくない。そういう預言は非常にグレイである。しかし同時に、無害だとも言える。聞いた人が具体的に影響を受けることがないからだ。では良いかというと、それも疑問だ。聞いた人に何の益も害ももたらさず、しばらくすると忘れられてしまう預言に、いったい何の意味があるのだろうか。

 聖書を見ると、預言がかなり詳細で具体的なのがわかる。日時や場所や方法が指定されている。そして語られた通りのことが起きている。それに比べて今日の「預言」はその反対だ。抽象的すぎて、本当に起こったかどうかわからない。そして、人々に何の変化ももたらさない。これは重要なポイントだ。聞いた人に何の影響も変化ももたらさない預言など、存在する価値がないと思う(何らかの「励まし」にはなるかもしれないけれど)。

 大きな聖会で、大物「預言者」が日本のために「預言」するのを聞いたことがある。やたら長かったけれど、キーワードを挙げるなら、「いつの日か」「新しい波が起こる」「リバイバルが起こる」といったものだ。そこには何の指定もない。だから何の行動にもつながらないし、結果を確かめることもできない。その預言は書き留められても、結局のところ誰にも顧みられない。

 けれど、中には作意を持って「預言」を語り、人々をコントロールしようとする正真正銘の「偽預言者」もいる。それに比べたら、上記のような「預言者」らは無害なだけ、まだ許されるだろう。意味のない「預言ゴッコ」であるのは変わらないけれど。

「感じたことを自信をもって語る」預言について

「預言」についてまた書く。今回は預言が語られる経緯についてだ。

 預言を強調する教会は、預言を語るには訓練が必要だと言う。そして教会独自の訓練会みたいなもの開いたり、他教会に対してもオープンな「預言者学校」を開いたりする(学校といっても非公式なものだけれど)。
 それらで一定の訓練を受けたクリスチャンらが、インターン預言者みたいになって預言活動をするようになる。ある者は「預言者」としての頭角を現し、大いに「用いられる」ようにもなる。

 そういう預言者訓練のキモは、要するに「感じたことに自信を持て」だ。祈りの中で、何となくこんなイメージ、こんな言葉、こんな感覚、といったものを感じたら、それを迷うことなく、自信を持って語りなさい、恐れてはいけない、と言う。祈っている時なのだから神からのものをキャッチするはずだ、というよくわからない根拠が付け加えられる。

 しかしそういうことで語られる「預言」とは、完全なる「感覚頼み」でしかない。その証拠に、個々の「預言」を聞けばわかるけれど、誰にでも当てはまりそうな抽象的なものが多い。たとえば、「今のあなたの問題は、幼少期の親との関係に原因がある」とか、「あなたも覚えていない過去の経験が深い根となって、あなたを苦しめている」とか。それらに当てはまらない人の方がよっぽど少ないだろうと思う。あるいは多少具体的だからといって、信憑性が増すとは限らない。祈り手が相手のことを個人的に知っている場合があるからだ。

 時々、ゲストとして招かれた「預言者」が、初めて会った相手に「預言」し、「ピタリと言い当てた」という話を聞くことがある。大いに感動してそう話す人がいるけれど、どこまで具体的だったのかよくわからない(もちろん本当かもしれない)。感動が大きすぎて、内容についてはあまり吟味していないようだ。
 しかしそう話す人のその後がどう改善されたか、という点で見る限り、その「預言」が効果的だったとは考えにくいケースが多い。

「感じたことを自信をもって語れ」と言われたら、インターン預言者は気が楽になるだろう。ふと心に浮かんだことを「主からのもの」と信じて語る訳だから、ある意味で簡単なことだ。威厳をもって、それらしく語ればいい。相手は初めから主からのものだと信じて聞いているのだから(そういう人しか預言を受けようと思わないだろう)、語り放題だ。ただし、明らかにおかしいことは言えないから、ある程度抽象的に、曖昧に、オブラートに包んで語らなければならない。
 しかしそれさえうまくできれば、立派な「預言者」の誕生である。

 あるいは「預言は吟味するようにしている」と言うかもしれない。しかし吟味の方法については語られない。「聖書と照らし合わせる」など言うかもしれないけれど、非常に抽象的だ。だいいち、たとえば牧師が「預言」した内容について、まわりにいる信徒らがどう吟味できるだろうか。異論、反論を述べられるだろうか。仮にできたとして、牧師に簡単に押し切られないだろうか。

 現在の「預言」には、教会のヒエラルキーが大きく関与している。上位の人間が語る「預言」には権威が付与され、信憑性が増し、吟味するまでもなく正しいとされる。下位の者の「預言」は、上位の人間の支持を得なければ通らない。
 しかしいずれにせよ、それらの預言の多くは(ほとんどかもしれない)、感覚頼みかつ自信過剰という背景で語られたものばかりだ。神など関係していない。

2014年3月15日土曜日

超具体的な「個人預言」にひそむ、恐怖の運命論

「個人預言」という種類の預言がある。預言を強調する教会では日常的に語られている。特定の人物の特定の状況に対して、神が特別に必要と認めて啓示するという、極めて限定的で個人的な預言のことだ。

 預言の存在を完全否定する教団教派もあるけれど、まったく存在しないとするのもどうかと私は考えている(といってもそれについて議論する気はない)。しかし、現在いろいろな教会で語られている個人預言について聞いてみると、違和感を覚えずにいられないのも事実である。

 ある教会は、信徒の進学や就職、転職に際して、「〇〇大学で勉強している姿が見える」「△△会社に就職して成功する」「××会社(現在勤めている会社でない会社)で働いている姿が見える」など、かなり具体的な預言をしている。実際にそういう個人預言を受けたクリスチャンを何人か知っている。彼らはそれぞれ、受けた預言をどう扱うべきかと困惑しているようだった。

 私はそこまで具体的ではなかったけれど、似たような種類の預言を受けたことが複数回ある。だからその気持ちが少しは想像できる。

 そこには一つには、自分で選択しなくていいという「楽さ」がある。あれこれ迷うことなく、進路を決められる。それを選ぶに値する明確な理由も必要ない。ただ神を信じている、その神は自分に利益をもたらしてくれる、それだけが理由だ。もちろん、その個人預言が100%神からのものであると信じていればの話だけれど。

 もう一つには、「運命論」的な違和感がある。自分の未来はすでに決まっていて、どうにも逃れることができない、どう進んでもそこに至る、という「運命」を突き付けられたような感覚だ。それは恐怖でもある。あえて全く別の道を進んだらどうなるのか、裁かれるのか、祝福を失うのか、地獄に落ちるのか、というような恐怖だ。
 また、それは選択の自由を失わせる。何をしてもその預言の通りになるとしたら、人には選ぶ権利などない。しかしそれは聖書的にも矛盾する。たとえばその理屈が通るとしたら、イスカリオテのユダは、裏切り者として運命づけられていて、それゆえキリストを裏切らさせられた、ということになるからだ。すると彼は心ではキリストを裏切りたくなかったけれど、神によって一方的に決められた運命の力により、裏切らざるを得なかった、ということで、彼に罪はない。そして逆に、神がユダに汚れ役を無理矢理やらせ、挙句の果てに地獄に落としたということにもなってしまう。

 
 具体的な個人預言は、時として必要とされるかもしれない。その可能性は否定できない。けれど、人生の節目の度に次はここ、その次はここ、と運命のように語られ続けるとしたら、それはどこかおかしいと考えるべきではないだろうか。
 もしその運命論的な個人預言の全てに従っていくとしたら、その人生はいったい誰の人生なのだろうか。少なくとも、その人自身の人生ではないだろう。

2014年3月13日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第21話

 献身するか、大学生活を続けるか。
 キマジメくんは寝ても覚めても、そればかり考えるようになっていた。毎朝聖書を読み、祈る時間を持ち、神の前に静まっていた。しかし、溝田牧師と話してからもう一週間になるけれど、まだ神様からの啓示は何もない。そろそろ結論を出さなければいけないのだけれど。
 一日一日と過ぎていくうち、キマジメくんは徐々に、居ても立ってもいられなくなってきた。神様に語っていただく必要があるけれど、何一つ起こらないからだ。疑ってはいけない、信じ切らなければならない、と「ヤコブの手紙」から教えられているけれど、それでも焦りは募る。断食とか、どこかに行って集中して祈るとか、誰か有名な先生に祈ってもらうとか、そういう特別なことをすべきなのかもしれない。自分の祈りが、足りないのかもしれない。
 そう考えたある夜、部屋でジッとしていられなくなった。平日の深夜だけれど、キマジメくんは教会に行くことにした。教会では「ダビデの幕屋の祈り」が捧げられている最中のはずだからだ。

 会堂は祈りの声と熱気に満ちていた。ステージではその時間帯の担当チームが楽器を奏で、大声で賛美の歌を歌っている。集まった会衆はそれぞれに、歌ったり祈ったりしている。キマジメくんは末席につき、目を閉じた。この会堂内の力強い雰囲気は、皆が言うように「主の臨在」であるはずだ。彼はその臨在に身を浸そうと努めた。
 やがてキマジメくんも、チームの歌声に合わせて歌い始める。心のうちに、力がみなぎるようだった。これが聖霊様の力なのだ、祈りの中で聖霊様が働いて下さったのだ、と思い、彼は力いっぱい歌った。

 礼拝の後、声をかけられた。「キマジメくん」
 見ると溝田牧師だった。会衆側に座っていたらしく、存在がまったくわからなかった。慌てて挨拶する。
「今ちょっといいかい」と聞かれ、ハイと返事する。牧師はさっそく聖書を開いた。「実はこの礼拝の中で、キマジメくんの為に祈っていたんだよ。するとね、聖書を通して語られたんだよ。ヨシュア記1章9節」
「はい」キマジメくんは急いで聖書を開こうとしたけれど、牧師はかまわず読み上げる。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにいるからである、とね」
「はい」
「今主は、キマジメくんの決断を後押ししておられるよ。恐れてはいけない、おののいてはいけない、とね。恐れることは罪なんだよ、キマジメくん。神のしもべは勇敢に、信じて突き進まなければならないんだ。私もずっとそうしてきたんだよ」溝田牧師はキマジメくんの肩をポンポン叩き、歩いていく。「ま、よく祈って、主の御声を聞くように」
 キマジメくんはその背中に向かって頭を下げ、御礼を言った。

 帰り道、牧師を通して語られたヨシュア記1章9節を、キマジメくんは暗唱するまで口ずさんだ。いつになく軽い足取りだった。少なくとも教会に行く前の心の重さは、まったく感じられない。この夜、急に思い立って教会に行ったのは、この為だったのかもしれない。そしてこれは神様の導きだったのかもしれない。いや、きっとそうだ、とキマジメくんは思った。
 そして部屋に帰ると、すでに午前1時を回っている。明日の講義は朝一からだから、すぐにでも寝なければならない。しかし、大学を辞めて教会に献身しようとしている今の彼とって、講義など何の魅力もない時間の浪費でしかない。頑張って受けて何になる――そう思いつつ、何気なく時計を見た。ちょうど1時9分だった。「1」と「9」という数字にキマジメくんは目を丸くした。
「ヨシュア記1章9節!」と叫んでいた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年3月12日水曜日

「特別な祈りの期間」にひそむヒューマニズムや律法主義

「特別な祈りの期間」について、3回目になるが書きたい。

 人生の分岐点に際して、神からの特別な啓示や指示がほしい、それに従いたい、というような動機から、あるクリスチャンらは「特別な祈りの期間」に入る。断食したり、一晩中祈ったり、人里離れた所に引きこもって祈ったり、というようなことをする。彼らの願いは、その期間の途中か最後に、何か劇的な形で、神に語られることかもしない。選択にあれこみ迷い、悩み、苦しんだ末に神から語られる――さぞかし感動的な体験だろう。しかし、ずいぶん演出がかっている。以前書いた「劇場型信仰」に通じるものがある。
 それにその思考は、何度も書いたように、自分の都合でしかない。神を立てているようで、実は神を召使のように使おうとしている。その意味で、神中心でなく人間中心、つまりヒューマニズム的な信仰だと言える。

 またそこには、重要な局面においては十分に集中し、時間をかけて祈らなければ、神は語られない、という考え方がある。つまり、人間の側の努力がなければダメだ、ということだ。
 しかし残念ながら、聖書はそういう信仰の姿勢を「律法主義」と呼んでいる。

 神はいつでも語ることができるし、いつでも働くことができる。人間の側の何かを一切必要としていない。相手が罪深いからだとか、不信仰からだとか、そういうことで語られないということもない。逆に、相手が完璧な信仰を持っているとしても、だから優先的に語るということもない。神は神のタイミングで、神の考え方で、何かをするだろう。そのタイミングを、人間があれこれ指図すべきでない。信仰的な姿を見せることで、操作しようとすべきでない。

 ルカ19章には、ザアカイという取税人が登場する。彼は取税人として数々の不正をしてきた。その彼の町に、イエス・キリストがやってきた。群集がキリストを囲んだ。ザアカイは木に登ってその様子を見ていた。群集の中には信仰的な人物が大勢いただろう。キリストの関心を引きたいという人も大勢いただろう。しかしキリストが声をかけたのは、木の上のザアカイだった。

 聖書を読んでみると、ザアカイのように神に「特別に語られる」体験をした人物が多く登場する。しかしそういう彼らが語られるために特別に祈っていたかというと、決してそんなことはない。ペテロは漁師として網を繕っている時に、キリストに声をかけられた。ダビデは羊飼いとして野にいる時に、預言者サムエルに呼ばれた。普通の人が普通に働いている、そのいつもと変わらない平凡なタイミングで、神の特別な介入があった。そしてそれは彼らの努力や願望の結果ではなかった。彼らは毎日コツコツ、地道に働く、目立たない人々だった。ほとんど誰にも知られない存在だった。

「特別な祈りの期間」というのは、人生のある特定の時に、必要になることもある。しかしその動機が、上記のようなヒューマニズム的信仰だったり、律法主義だったりするとしたら、その祈りには意味がない。むしろ祈らない方が、神を冒涜しないで済むだろうと思う。

2014年3月11日火曜日

「特別な祈りの期間」を持つ暇があるなら

 前回、「特別な祈りの期間」について書いた。それは人生の分岐点に際して神の導きを求める、という種類の祈りだけれど、いついつまでに必ず答えをくれという、神に対する一方的な要求が含まれていると書いた。今回はこの手の祈りについて、別の側面から書きたい。

「特別な祈りの期間」を持つのは、人生の分岐点であることが多い。その決定が自分にとって一大事であるだけに、失敗したくない、できるだけ大きく成功したい、という願望が否応無く働くからだ(そこには繁栄の神学的な発想が多分に含まれている)。

 そしてその分岐点というのが、神に献身したい、仕えたい、という願望であることがある。
 クリスチャンとして何年か過ごしてきた人が、いよいよ本格的に神様の為に働きたい、この人生を捧げたい、と思うようになって、そういう「特別な祈り」を捧げるに至ることが多い(もちろん皆が皆そうという訳ではない)。

 それだけ聞くと、いかにも献身的で敬虔なクリスチャンの祈りのような気がする。しかしそういう献身希望者の話を聞くと、クリスチャンミュージシャンになりたいとか、ある分野の伝道者になりたいとか、キリスト教精神で事業を始めたいとか、そういう「目立つ何か」であることが多い。しかも神の御心をうかがうというより、すでに自分で出している答えに神からのゴーサインがほしい、という動機で祈っている。だから、そこで神がノーと言ったり別の何かを示したりすることは、初めから想定していない。というか求めていない。結局のところ、自分に都合のいいことを語ってほしくて祈っている。だから意識的にか無意識的にか、そういう答えに繋がる聖書箇所を「語られた」と言い張ったりする。そして、自分の考えを神が支持している、と正当化する。
 しかしそれは、自己実現のために神を利用しているに過ぎない。その祈りには、初めから神は関係していない。

 神のためにこれこれのことがしたいと思ったなら、べつに祈って待つ必要などない。黙して始めればいい。誰に注目されなくても、知られなくても、神と自分との間でわかっていれば十分ではないか。それをいちいち「神に語られたから始めました」とか言って、自分の願望を隠し、いかにも神に従順しているかのように演じるのは、何とも痛々しい。

 たとえば教会堂の掃除を頼まれた時に、「これは自分がすべき奉仕だろうか、自分は会堂掃除をもって神に仕えるべきだろうか」などと何週間も祈るだろうか。おそらく誰も祈らない。祈る暇があったら掃除を終わらせているだろう。
「いや、掃除よりもっと重要なことだから、時間をかけて祈るのだ」と言うかもしれない。しかしそれが神の為にどうしてもしなければならない重要なことだとわかっているなら、もう答えは出ている。祈るまでもない。やってみたい、でも自信がない、あるいは神の為かどうか実はよくわからない(単に自分の為かもしれない)、というような迷いがあるから、祈ると言って時間を稼ぐのではないだろうか。それは敬虔に見せかけた偽りでしかない。

 もちろん神は、「あなたがたのうちに働いて志を立てさせ」るお方だ(ピリピ2章13節・新改訳)。だから自分のうちにずっとあって消えない「願い」というのは、基本的に神からのものであると私は信じたい。だからこそ、「これは御心ですか」とうかがうよりも、実行してみるべきだと思う。仮にそれで失敗したとして、だから御心でなかった、ということにはならない。神からのものであると信じるなら、一度や二度、いや何度失敗したって続けるべきだ。そしてそういう苦しい時こそ、心から祈るべきだ。始める前でなくて。

的外れな「特別な祈りの期間」

 人生の分岐点にさしかかり、どうすべきか神に祈りうかがう、というのはクリスチャンならではだろう。
 それが重要な決断であればあるほど、神に答えてほしい、教えてほしいという願いは切実になる。そして決断すべき期限までの日々を、特に祈ることに費やす。実際、多くのクリスチャンがそのような「特別な祈りの期間」を持つのを、見聞きしてきた。

 そういう期間に神からの何らかの示唆を受け、そして決断に至ったという話も聞いたことがある。それはそれで良かったのかもしれない。しかしこのブログでも何度か書いてきたように、「神の導き」をそういう「分岐点ごとに受ける指示」みたいに扱うのに私は違和感を覚える。それはまるで自動車学校の中で、隣にいる教官の指示に従って車を走らせるようなものだからだ。同じ運転でも、一人で路上を走るのとはぜんぜん違う。

 大事な決断だから十分に祈りの期間を持つ、というのは根本的には間違っていない。けれど、それを「特別な祈り」と位置付けて、神に語られるまでは絶対にやめない、何が何でも語ってもらうんだ、という姿勢はどうなのだろうか。敬虔なのだろうか。信仰的なのだろうか。

 その姿勢の背後にある危険性は、期限を過ぎても結局何も語られなかった場合に現れる。この日までに神の指示がなければならない、でも何もない、という場合だ。その時落ち込みやすいのが、心に浮かんだ適当な聖書箇所を取り上げて「主がこう語られた」と言い張ることや、何らかの偶然をこじつけて「主がこう願っておられる」と決めつけるという類のことだ。それは私風に言うと、「御心の捏造」「勝手な思い込み」だ。

 この「神に語られるまで祈りをやめない、決断しない」という姿勢を見て連想するのが、使徒行伝23章21節である。
「どうか、彼らの願いを聞き入れないでください。40人以上の者が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと、誓い合って、彼を待ち伏せしているのです」(新改訳)

 パウロ暗殺を目論むユダヤ人たちが、それを成し遂げるまでは飲み食いしないと誓い合ったという。しかしパウロはこの後、少なくとも数年間は生きている。彼らはその間、飲み食いしなかったのだろうか。
 もちろん、彼らは神に対して誓ったという訳ではないかもしれない。しかし、この「〇〇するまでは××しない」というのはあくまで自分らの都合だ。こうしたいという願望を、押し通そうとしているに過ぎない。駄々をこねる子どもと同じだ。祈って絶対に神に語ってもらおうとするクリスチャンもこれと同じで、一方的に神を利用しようとしているだけだ。神に対する配慮など、そこには一切ない。

 その結果何も語られなくて、「神が語ってくれない」と言うのは逆ギレだろう。あるいは「神はこう語っておられる」と勝手に決めつけるとしたら、もはや神など関係ない。

 神は確かに語られるお方だけれど、その時語る語らないは、神ご自身が決めることだ。だいいち、神は聖書を通して、すでに十分なくらい多くを語っておられる。神に語ってほしいと願うならば、まずは聖書を読むべきだろう。

2014年3月9日日曜日

信徒に「負荷」をかける牧師の「余計なお世話」

 教会の成長というか信徒の成長を願う牧師に、信徒に負荷をかけることでそれを実現しようとする人がいる。その信徒には少し力不足なこと、無理しなければできないことをあえてさせて、限界を越えさせようとする。その結果、その信徒はできなかったことができるようになり、「立派に成長した」と言われることになる。

 負荷をかけて成長させる、というのはビジネスの世界ではよく言われることだ。しかしそれがそのままクリスチャンの成長に適用されるのはおかしい。なぜなら、能力的にできなかったことができるようになるのは確かにスキルアップではあるけれど、聖書が言うクリスチャンとしての成長とは全然関係ないからだ。

 そういう牧師の言い分は、要するに「獅子の子落とし」とか「かわいい子には旅をさせろ」とかいうようなものだ。甘やかしたばっかりに苦労を知らず、何の成長もなく大人になってしまう子の方が悲劇だ、だったら苦労させて立派に成長させた方がいい、という訳だ。

 しかし、それは親子の関係なら確かにそうだろうが、その理屈を赤の他人である牧師と信徒の関係に持ち込まれても困る。簡単に言うと「余計なお世話」だ。できないことができるようになるのは確かに良いことだろうけれど、それを望まない場合だってある。たとえばピアノ伴奏が好きで奉仕をしている信徒に、「もっと成長の可能性があるから」とかいう理由でまったく関係ない会計処理とか渉外とかの奉仕をさせるのは、いい迷惑でしかない。それを「成長のためだ」と言い張るのは、牧師の身勝手な独りよがりだ。「これは神が望んでいることだ」とか言うのは、信徒に断わらせないためだ。しかし、全てのクリスチャンには(のみならず全人類には)自由意思と選択の自由が与えられており、たとえ神様ご自身に直接何かを頼まれたとしても、我々には断るという選択が保障されている。神の要請を断るのは罪でもないし不信仰でもない(もちろん、明確に罪だとされる行為においては別だけれど)。
 だからもし「これは神の要請だから断ることはできない」などと言う牧師がいたら、その人には牧師としての資格はない。

 教会の成長とか信徒の成長を、おかしな方向で実現する教会が増えているように思う。何かの事業を始め、信徒をそれに従事させることで「実践的な」成長を促そうという方向だ。しかしそれは先に書いたように実務的なスキルアップでしかない。あるいは望まないスキルアップでしかない。少なくとも聖書的な成長ではない。しかしそういうことを教えられない信徒には、そんな判断はつかない。

 もちろん成長にはある程度の負荷が必要だと思う。しかし少なくとも、上記のような負荷は教会にもクリスチャンにも必要ない。それは負荷と言うより強制であり、虐待である。

2014年3月8日土曜日

今日の生き方が明日を決め、人生を決める、という話

 アメリカ人の登山家アーロン・ラルストンは2003年、ユタ州の渓谷で事故に遭った。落石に右腕を挟まれ、無人の渓谷の底で脱出不能となったのだ。4日間の葛藤と試行錯誤の末の5日目、彼は死を覚悟しつつ、自ら右腕を切断した。そして奇跡的に生還を果たすことができた。この事故の経過は2010年に『127時間』というタイトルで映画化されたので、私たちはその詳細を見ることができる。

 その事故はアーロン自身が認めている通り、自業自得とも言える。行き先を誰にも告げず、たった一人で危険な渓谷へ入っていったからだ。死を覚悟した時、彼はそれを「因果応報」という言葉で結論付けている。これは自分の行いが招いたこと、自分が悪いのだ、と。そして次のように告白する。

「俺の人生は今日までずっと、生まれた瞬間から、呼吸の一つ一つ、日々の行いが、すべて繋がっていたんだ。この大地の裂け目へと」(『127時間』吹き替え版より)

 自分の今までの全ての行いが繋がっていて、その渓谷で落石事故に遭うに至った。そういう意味でこれは偶然ではない。自分の生き方が招いた結末だ、という意味だと思う。私はその言葉に妙に納得した。

 たとえば強い反社会的な願望を持っていて、どうしてもそれをせずにいられない、という人がいるとする。その人は遅かれ早かれ、その願望を行動に移してしまう可能性が高い。そうせずにいられないからだ。そしてその行動の結果を負うことになる。その時になって後悔するかもしれない。しかし同時に思うのは、やはりそうせずにはいられなかったのだ、これはなるべくしてなったことだ、ということではないだろうか。それは自分の行いが積もり積もってできた結果であって、どうしても避けられないのではないだろうか。

 上記の例は悪いケースだろうけれど、これはあらゆる「結果」について言える。ある人の社会的な成功は、それまでの地道な努力の結果だろう。難関校に合格できたのは、膨大な学習の結果だろう。何であれ、人がある地点に到達するのは、決して偶然によるのではない。なかには偶然の作用もあり得るけれど、多くは、そこに至る道筋なしに到達するのではない。

 だから今日一日の自分の行動は些細なものかもしれないけれど、それらが積もり積もったところに、未来の自分がいる。そこから遠くかけ離れた未来などない。かけ離れた未来が欲しければ、今この瞬間から、その方向に軌道修正しなければならない。でないとそこには到達しない。

 人生の中である地点に到達し、ふと振り返った時、そのことに気づくかもしれない。その時後悔がなく、これで良かったんだと心から思えるような生き方でありたいと私自身は願う。そしてそれは今日一日の生き方、明日一日の生き方を考えることから始まるのだと思う。

追記)
 聖書的に言うならば、これは「行いの実を刈り取る」ということだと思う。人間は何であれ、自分のしたことの結果を、自ら受けることになる。逆に言うと、しなかったことの結果は決して見ることがない。

教会の「成長」が本物かどうか見分ける方法

 牧師でも何でもない私が表題について書くのも恐縮だけれど、信徒にとっても重要なことだから書いてみたい。

 ところで教会の「成長」というのも抽象的だ。人によっては建物が大きくなることとか、信徒が増えることとか、収入が増えることとか言うかもしれない。けれど要は、信徒らがいかに神を知り、その生き方が聖書に沿ったものに変えられているか、という点に尽きると思う。その結果として、その教会は信徒が増えるかもしれない。建物が大きくなるかもしれない。収入が増えるかもしれない。けれどそれらは結果であって、数字的な増加がそのまま教会の「成長」につながる訳ではない。聖書を知らず、その価値観に従って生きようとしない信徒がいくら増えても、意味がないからだ。

 ではその信徒の内的変化を、どのように測ればいいだろうか。私は一つのシンプルな、見るべきポイントがあると考えている。

・牧師がいる時といない時とで、信徒の様子が変わるかどうか

 特に信徒の奉仕の姿勢が、牧師がいる時といない時とで、大きく変わる場合がある。次のような相違点が見られる。

牧師がいる時:熱心、積極的、一致、緊張、恐怖・・・
牧師がいない時:手抜き、消極的、不一致、リラックス、安心・・・

 もちろん、指導者の存在はその場の雰囲気を変え得る。しかし、その変化が露骨なまでに大きいというのは、良くも悪くも牧師の影響が大きいということだ。普段から牧師の指導や介入が過剰で、信徒の側も細部に至るまで指示や許可を仰がねばならない程、依存過剰になっているかもしれない。それが良い形で機能しているならば、牧師がいると安心できて、いないと不安になるだろう。しかし介入過剰な牧師の教会は、その逆が多い。

 牧師が長期休暇で不在でも、教会が通常通り機能し、そのクオリティも維持されるとしたら、その牧師は良い仕事をしているのだと私は思う。その教会は牧師を必要としていないのではない。牧師が適切な指導をしているだけだ。
 逆に教会活動のほとんど全てが牧師頼みだったり、牧師の確認がなければ動かないとしたら、それは例えば、モーセが率いたイスラエルの民のようだ。モーセがいなくなるとすぐに、的外れな方向に傾く。

 そのようなケースは士師記に多く見られる。民は指導者がいなければ神に従えない。指導者がいなければバラバラになり、好き勝手なことをする。しかし今は新約聖書の時代であって、全てのクリスチャンが祭司であり、聖書を読むことができ、神に仕えることができる。神と自分との間に、牧師を挟み込む必要はない。
 そういう認識を信徒一人一人が持ち、かつ牧師の適切な指導があることで、教会は「成長」していくのではないかと私は思う。

 いつも牧師の目を気にし、何をするにも牧師の反応を注視する信徒がいる。牧師が部屋に入ってくると途端に緊張し、背筋が伸びる信徒がいる。牧師が否定するとすぐに自分の発言を撤回する信徒がいる。そういう彼らが「成長」するとしたら、それは牧師の機嫌を取り、牧師に気に入られるスキルの上達でしかない

2014年3月6日木曜日

「神が愛ならどうしてこの世に苦しみがあるのか?」という問いについて考えてみた

「神が愛なら、どうしてこの世は苦しみ、悲しみで満ちているのですか?」という質問に、ハーベストタイムで有名な中川健一師が3分で答える動画がある。

http://seishonyumon.com/movie/1812/

 正確に言うと、この動画は先の質問に明快に答えている訳ではない。代わりにヒントとなる3つのポイントを、聖書から挙げている。わかりやすく、しかも3分で終わるからお勧めだ。

 この中川師の説明に私は同意している。それより私が考えさせられたのは、この質問そのものが的外れなのではないか、ということだった。

 この質問は、神が愛なら人を決して苦しめないはずだ、という前提から出発している。しかし質問者が愛や苦しみについてどう考えているかがよくわからない。もし全人類がいっさい苦しまないようにすることが愛だ、と言うのなら、人類は自由意思を持たないロボット集団でなければならない。それぞれに嗜好や価値観の違う全ての人間を苦しませない方法は、それ以外にないからだ。しかしロボット集団であるなら、苦しまない代わり、喜んだり笑ったりすることもない。

 どんな状態が「幸せ」「満足」「安心」であるかは、人それぞれ違うだろう。しかしそれらが存在するのは、そうでない状態(たとえば苦しみ)が存在するからに他ならない。苦の時間を通るからこそ、その後に訪れる楽の時間が貴重なものになるのだ。もし苦が一切ないとしたら、そこにあるのは楽ではない。楽かもしれないが、当の本人はそう感じることができない。たとえば仕事の合間の休憩時間は嬉しいだろうが、一日中休憩時間だとしたら暇なだけだ。嬉しくも何ともない。

 だから「神がいるならこの世に苦はないはずだ」というのは、矛盾した論理なのだと私は考える。それは「天国」という、この全宇宙を支配する全ての法則を超越した場所でなら、実現するはずだ。しかし現在私たちが生きているこの世界では、やはり苦楽がある。苦があるから楽があり、楽があるから苦がある。なんだか「水戸黄門」の歌みたいなフレーズになってしまったけれど、その両者は、互いの存在に支えられて存在している。ちょうど光があるから闇があり、闇があるから光があるように。

 私は楽しいことや嬉しいことを体験したいので、苦しいことや忍耐すべきことも通らなければならないと思っている。もちろん理不尽な苦しみや悲惨な災いは避けたい。けれど残念ながら、避けられないことはあるだろう。しかしだからこそ、私たちは神を信じ、彼に頼るのではないだろうか。

「本当のクリスチャンかどうか」という無意味な競争

「終末」について学ぶことは、クリスチャンにとって興味深いことだと思う。かくいう私も終末論を並々ならぬ熱心さと好奇心をもって学んだのを覚えている。

 教団教派によっていろいろかもしれないけれど、終末論には「携挙」という言葉が登場する。患難時代の到来の前後(そのタイミングには諸説ある)のどこかで、クリスチャンが超自然的に天に挙げられる、という現象のことだ。このとき天に挙げられるのは「本当のクリスチャン」だけで、世俗的だったり中途半端だったりするクリスチャンらは地上に取り残される、という。「だから本当のクリスチャンでなくちゃ」とか「携挙されなかったらどうしよう」とかいう会話が、この学びの後は盛んに聞かれたりする(多くは笑い話としてだけれど)。

 しかしそういうのを笑い事でなく、いたって真剣に主張するクリスチャンもいる。「本当のクリスチャンでなければ携挙の時に泣くことになるぞ」ということで、「本当のクリスチャン」になる方法をレクチャーする。レクチャーといっても「いつも神様と親しく交わっていよう」とか「いつも御心を行っていよう」とか「いつも備えていよう」とか、抽象的な努力目標を掲げるだけだけれど。

 私に言わせれば、そういう主張は人々を恐怖に陥れるだけだ。「本当のクリスチャンか、そうでないか」の二元論に人々を引き込み、前者でなければならないという恐怖にかられた競争に、無理矢理参加させるからだ。そして、私の方がよく祈っている、私の方が多く奉仕している、私の方が大きく用いられている、という感覚がなければ決して安心できないようにさせる。

 聖書は、信仰の競争で他のクリスチャンらを追い越し、勝ちなさいとは言っていない。むしろ逆のことを言っている。自分は罪ある人間だ、本当にダメな人間だ、神の憐れみなしには生きられない人間だ、という悔いた心を持つことを勧めている。そしてそれはある意味で、「敗北者の心」だと思う。

 上記の「本当のクリスチャン」であろうとする人々は、よく祈っているだろうし、よく礼拝しているだろう。神の声を聞き、それに従おうとしているだろう。しかし、それらの行為をもって「自分は本当のクリスチャンだ」と自負している時点で、悔いた心を失っている。自分を勝者としているからだ。
 そういう意味での「勝者」と「敗者」を聖書がどう扱っているか、最後に引用したいと思う。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者でなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分に一をささげております。』
 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカの福音書18章10-14節・新改訳)

2014年3月5日水曜日

献身者に「社会経験」は必要かどうか、というナンセンスな論点。

 若くして神様に「献身」しようとする人がいる。彼らは高校や大学を卒業した後、内外の神学校に行き、卒業とともに教会での献身生活に入る(もちろん皆が皆そうという訳ではない)。だから彼らは多くの場合、一般的な「就職」を経験していない。
 聖書にも彼らのような人物が登場する。たとえばサムエル。幼いころから神の宮で祭司に仕え、そのまま大人になった。中世ヨーロッパにもいる。一定の学業を終えてそのまま修道院に入り、そこで一生を過ごした。

 今日、一般企業や官公庁でサラリーマンとして働くことは「社会経験」と表現される。そういう意味だと、上記の彼らには「社会経験がない」ということになる。そしてそれを問題視する声が、キリスト教界には少なからずある。

「クリスチャンは社会経験を積んでから献身するべきだ。でないと、社会人の苦労や気持ちがわからないから」

 その意見はもっともで、私も同意する部分がある。しかし、ではどれくらいの社会経験があればいいのかという点で疑問がある。社会経験が十分にあるから良い献身者になれるとは限らないからだ。それは全ての経験豊かな社会人が真面目なのでなく、立派なのでなく、品行方正なのでないのと同じだ。逆に社会人一年目でも非常によくできた、人格的な人物はいる。だから「十分な社会経験→立派な献身者」という図式は、必ずしも成立しない。

 では献身者に社会経験は不要かと言うと、それも一概には言えない。たとえば神学校を卒業してすぐ牧師になり、単立教会を開拓した人がいるとする。彼には就職して働いた経験がない。それ自体は問題ない。けれど彼には、誰かの下で働いた経験がない。彼は最初から教会の長であり、信徒をまとめるリーダーであり、皆にものを言う立場であって、言われる立場ではないからだ。ビジネスの世界には「人に使われた経験のない者は人を使うことを知らない」という言葉があるけれど、それはかなり的を射ていると私は思う。その牧師は、人を導くということが本当にはわかっていない可能性がある。その場合、彼には一定の社会経験が重要な意味を持つ。

 献身者に「社会経験」は必要か、どうか。

 私はこの問題の原因は、そういう個人の資質というより、その構造にあると思っている。社会経験を積んで一定の人格的基準を満たしたから献身者になれる、というのは短絡的だ。人間というのは良くも悪くも変化するからだ。ある時点で良い人間だから、その後もずっと良い人間であり続けるとは限らない。状況によって人は変わる。もし自分に意見する者がなく、全て思い通りにできるとしたら、その人はいつしか堕落するだろう。しかしそれは彼個人の責任とは言いにくい。そういう状況であったことが、大きく影響しているからだ。

 人は必ず間違える。必ず失敗する。悪くなる時もある。それが人間だからだ。ある基準に達したと思われる人物に全てを託すのは、賢明ではない。その人物のその後はわからないからだ。
 相互に監督し合う構造がなければ、その組織の永続性は危うい。そしてそこでは、社会経験の有無はあまり重要ではない。しかしその方が良いと私は思う。社会経験の有無でいろいろ言われるのは、結局のところ、その人を肩書や経歴でしか見ていないことだと思うからだ。

2014年3月3日月曜日

本を焼くことは人を焼くこと。「アンネの日記」事件について思うこと。

 図書館で「アンネの日記」とその関連書籍が破られる事件が起きている。警察の捜査が始まっているようだけれど、まだ犯人の特定には至っていない。メディアでは様々な犯人説が取り上げられ、ちょっとした話題になっている。

 こういう事件で特に注目されるのは、犯人(グループ)とその動機だろう。誰が何のためにやったのか。私は動機の方を知りたいと思う。

 本を破く(あるいは燃やす)というのは、世界中で歴史的に繰り返されている。古くは秦の焚書、近代ではカトリックの禁書目録、ナチスによる禁書などがある。おそらくその他にも沢山あるだろう。いずれにせよ禁書の目的は思想の統一である。そしてその裏にあるのは特定の人物、人種、思想、イデオロギーなどに対する弾圧である。ある一つを選び、他を排除する、ということだ。

 その姿勢に「図書館戦争」という作品を思い出した。同作品にこんな言葉が出てくる。
「本を焼く国は、人を焼くようになる」

「アンネの日記」を破いた犯人はわからないけれど、その動機にはこれと同じ姿勢があるような気がする。アンネ個人かユダヤ人全般かはわからないけれど、ある何かの存在を認めない、抹消したい、という動機があるように思える。そしてその動機は、聖書的には「殺人」に通じている。

 しかしそういう大それた思いがあるとしたら、やることが小さい。図書館でコソコソ隠れて本を破くだけだからだ。どうしても主張したい、訴えずにいられない位の切実な事情があるのなら、また違う方法を選ぶのではないか。その意味で、今回の犯人にはそれほど重要な主張はないのかもしれない。

 上記とは関係ないけれど、一つ危惧しているのは、ユダヤ文化に傾倒する教会なりクリスチャンなりが、この事件に関して根拠のない陰謀説を持ち出すことだ。イスラエルに対する「霊的攻撃」の現れだとか、フリーメーソンなりイルミナティなりの暗躍だとか、そういう突拍子もないことを言い出すのではないかと、私は他人事ながら心配している。そしてそういう陰謀説に巻き込まれて「霊的打ち破り」のために真剣に祈る羽目になる信徒がいるとしたら、それは本当に残念なことだ。

2014年3月2日日曜日

黒いワンボックスカーは去って行く

 一台の車が駐車場を出る。黒塗りのワンボックスカー。亀のようにゆっくり発進し、道路の手前で音もなく停止する。忘れた頃にまた動き出し、のそのそと道路に出る。その後はゆるやかに加速し、長い時間をかけ、やがて小さな点となった。

 道路の半分を占拠して歩く、学生の一団がいる。男ばかりの5人組。でかいカバンを肩から下げているせいか、皆一様に姿勢が悪い。よく響く声で何やら話している。クラスの女子の話らしい。誰それは誰それのことが好きだとか、誰それは最近振られたとか、何とか。時折けたたましい笑い声が上がる。そのせいか、黒いワンボックスカーの接近に気づかなかった。車におだやかにクラクションを鳴らされた。彼らは話に盛り上がりながら、なんとなく道端に寄った。しかしなおも、いわゆる「コイバナ」に夢中で、自分たちの脇を通った車がどんな色かも形かもわからなかった。何台通ったかさえ、知らなかった。

 男は胃薬を噛み砕いてのんだ。コップの水を一気に飲みほした。いつもならここでタバコを吸うのだけれど、今日はそんな気分になれなかった。携帯の画面を確かめた。メールの着信はない。しばしの休息を得て、男は目を閉じた。その時、窓の外を、黒いワンボックスカーが通り過ぎた。

 少年は携帯ゲーム機を睨む。次のプレイは、彼にとって大きな意味を持つ。プレイが成功すればレベルが上がり、レベルが上がれば次なるステージに進めるからだ。失敗してはならない。幸い、母親は別の母親との話に盛り上がっている。あそこのダンナはああだこうだと、飽きもせずによくしゃべっている。しかしおかげで、少年はプレイに集中していられる。ゲームがロード画面に切り替わった。少年はふと、ゲーム機から目を上げた。そのとき視界の端を、黒いワンボックスカーが通った。しかしその映像は、少年の記憶に一切残らなかった。

 女は画面から目を離した。そう言えばもう何時間も作業を続けていた。少し目を休めた方がいいかもしれない。窓の外の青い空をしばし見つめ、それから目を閉じてみた。まぶたの裏に、画面の残像が浮かんでいる。
 少し働き過ぎかもしれない。上司からも休むよう言われたばかりだった。しかし、休んでもやりたいことなどない。友人には何ヶ月も前から旅行に誘われているけれど、ずっと返事を濁してきた。その友人からは「たまには旅行もいいものよ」と言われ続けている。正直言うと面倒だとしか思えないけれど、確かに気分は変わるかもしれない。
 ふと地上に目をやる。黒いワンボックスカーが、会社の前をゆっくり通り過ぎて行く。その先の道路は二股に別れている。女はとっさに思いつく。あの車が左の道を行ったら、旅行に行ってみることにしようか。今すぐ友人に電話して、一番早い出発便を頼んでみようか。でももし右に曲がったら……。その続きを考える間もなく、車は分岐にさしかかった。

 黒いワンボックスカーの出発をじっと見つめる、老姉妹がいる。寄り添い合い、支え合い、じっと車を見ている。昨夜亡くなった姉の遺体を載せ、車は駐車場をゆっくり出て行く。車は去り、姉も去って行く。厳密に言うと姉はすでに去っている。しかしその遺体との別れがすんなりできることにはならない。車が道路に出て、見えなくなっても、姉妹はしばらく、姉の去った方向を見つめていた。(終わり)

2014年3月1日土曜日

キリスト教「体験至上主義」の5つの問題点

「超自然的な歩み」を願うクリスチャンらがいる。神の超自然的な働きにより、自分たちの「平凡な日常」が、「奇跡的な非日常」に変わるのを熱望している。そのために熱心に祈っている。そしてそれこそが正しいクリスチャンの歩みだと信じている。

 信仰がただの概念でなく、形式的あるいは習慣的なものでもなく、実際に体験すべきものだとする姿勢自体は、間違っていない。しかし行き過ぎると、体験至上主義になる。体験することが全てで、できなければゼロ、という信仰の姿勢だ。
 その問題点を5つ挙げてみたい。

・体験=霊的成長
 神の肉声を聞いたとか、天使の羽が降ってきたとか、何かの奇蹟を体験したとか、そういうことが霊的成長の証明とされる。つまりクリスチャンとして成長したから、こんな体験ができるのだ、という発想がある。

・体験できない=不信仰あるいは罪がある
 反対に、体験できないのはその人に何か問題があるからだとされる。不信仰だったり、隠れた罪があったり、「家系的な呪い」があったりと決めつけられる。

・だから体験しなければならない―体験のための試行錯誤
 彼らにとって体験が全てである。何が何でも体験しようとする。そして方々のセミナーに行ったり、集会に行ったり、その手の本を読んだり、体験するために良いとされるものは何でも試そうとする。その姿勢に、新約聖書に登場する「長血の女」の苦労を連想するのは、私だけだろうか。

・体験したという思い込み―体験の捏造
 大変な苦労にも関わらず体験できないことがある。しかし先輩クリスチャンとか牧師とかであるなら、当然すごい体験の数々がなければならない。それがクリスチャンとしてのレベルなのだから。それで最終的には、単なる気のせいだったり偶然だったりすることを、神からの不思議体験だとこじつけるようにもなる。

・体験競争―他者との比較
 よその教会やクリスチャンの「すごい体験談」を聞いて、いや私はこうだ、私たちの教会はこうだと張り合う姿勢が生まれる。もはや神など関係ない。

・その連鎖
 そういう体験至上主義を見て、後輩クリスチャンや子どもたちは「これが本当の信仰だ」と信じるようになる。彼らはすでに体験至上主義の後継者、あるいは伝道者である。


 最後に、根本的なことだけれど、体験至上主義は体験を第一に求める。神ご自身をではない。その神から発せられるであろう体験を求めている。これは祖父母を訪ねる孫が、祖父母の安否を気遣ってというより、その財布から出てくるものに期待していることに似ている(もちろん全ての孫がそうなのではない)。それは御利益主義であり、相手に対する無礼である。
 神を愛するというより、その神を利用することを愛する。そういう人たちに適用されるであろう聖書の箇所がある。マタイ7章22~23節(新改訳)だ。

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『私はあなたがたを全然知らない不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」