「終末」が簡単に想像できるものなら誰も苦労しない、という話

2014年3月31日月曜日

「終末」に関する問題

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『レフトビハインド』(Left Behind)というアメリカの小説がある。聖書の黙示録をモチーフにした、いわゆる「終末パニック小説」だ。長いシリーズになっており、2002年頃から日本でも順次刊行されている。聖霊派クリスチャンの間では、けっこう話題になった。私も最初の一冊は読んだ。

 内容は、終末論でいう「患難前携挙説」にのっとっている。つまり終末の患難時代が始まる前に「携挙」が起こり、全世界で同時に、「敬虔な」クリスチャンらが姿を消す。主人公らは携挙されず地上に残された人たちで、世界規模で起こる様々な患難を、目の当たりにしていく。

 物語は、著者が解釈した黙示録の流れに沿って展開していく。もちろんその解釈が正確かどうかという議論はあって、キリスト教界では賛否両論あるようだ。けれど、エンターテイメントと割り切って読む分には、全然問題ないと私は思う。それに話の時代設定も、今となっては若干古い「近未来」だ。あくまで、「今この時代に終末が始まったらどうなるか」という空想を楽しむ作品だと思う。それで読者が「クリスチャンとしてちゃんと生きなきゃ」と思うとしたら、それはそれで悪いことではない。
 もっとも私個人は、続きを読もうとは思わなかったけれど。

 本書の影響か、あるいは昨今の急速なグローバル化・IT化のせいかどうかよくわからないけれど、この頃から、終末関連の話題をちらほら聞くようになった気がする。特に多いのが「獣の刻印」についてだ。
 
「獣の刻印」とは、黙示録13章によると、患難時代に「獣」(悪魔)を拝む人々に与えられる、何らかの「しるし」だという。「666」という数字とも書かれている。その刻印を受けない者、つまりクリスチャンらは、一切の売買が禁止される等の迫害に遭うことになる、という。
 この刻印が、現代の技術で言う「生体埋込チップ」の類ではないか、という話を何度か聞いたことがある。クレジットカード番号や携帯電話番号、日本で言えば基礎年金番号などの個人情報がチップに登録され、それを埋め込まれた人間は、政府によって全ての行動を管理される。そして諸政府の背後に働く「獣」が、チップを「獣の刻印」として巧妙に利用するようになる。するとチップを埋め込むことは「獣」を崇拝することになるから、クリスチャンは自分を管理する番号やチップには注意しなければならない、というような話だ。だいぶSFが入っているような気がする。
 その話の出所は一つだったかもしれないけれど、複数の人がそんなふうに話すのを聞いたことがある。

 私は初め、それを聞いて恐ろしく感じた。十分ありそうな話に聞こえたからだ。そしてクレジットカードも携帯電話も持たない方がいいのかも、と真剣に考えた。

 しかしよくよく考えてみると、そういうのはちょっと考えれば思いつきそうな範疇の話だ。少なくとも、まったく想像すらできないような話ではない。そしてそういう、人間が想像できるようなやり方で、悪魔が攻めてくるだろうか。もしそうなら、人間は自力で悪魔に勝てるということになる。それなら人間は堕落することもなかった。相手のやり口を想定して、先手を打つことができるからだ。神の助けも必要ない。

 もしあなたが誰かを完璧に騙そうとしたら、相手に絶対に悟られない方法を、必死で探すのではないだろうか。そして一切疑われることなく、巧妙にやり抜くことに全力を傾けるだろう。しかしもし相手が自分より上手だと知っていたら、初めから騙そうとは思わないだろう。相手が自分よりバカで、うまく騙せるとわかっているから、騙すのだ

 そういう可能性について考えることもなく、自分たちは神から特別な啓示を受けている、悪魔の策略を打ち破ることができる、とするのはいささか安直ではないかと私は思う。時代や状況から何かを想定することは簡単にできる。しかし聖書のシンプルな語りかけに耳を貸すことは、案外難しい。とかく終末に関しては、イエス・キリストが初めに警告していることに、私たちはもっと耳を傾けるべきだと思う。
人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイの福音書24章4節・新改訳)

追記)
 趣旨を誤解されても困るので追記しておくと、『レフトビハインド』という作品自体を批判しているのではない。作中の著者の聖書解釈はさておき、一つのエンターテイメントとして読むには、何ら問題ないと私はとらえている。

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