神の御業を体験することは、信仰の到達点でなく、通過点でしかないという話

2014年3月29日土曜日

「体験至上主義」に関する問題

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「体験至上主義」信仰について、もう少し考えを深めてみたい。

 体験至上主義の問題点の一つは、奇跡などの御業の「体験」を重視し、それをもってクリスチャンの成長、成熟、レベルを測るところにある。つまり信仰の最大の到達点が奇跡体験にあり、そういう体験を伴わない信仰はダメだ、とする点だ。
 またもう一つは、自分にとって良い御業、得な御業、幸いをもたらす御業だけを神に要求するところにある。苦しみや不当な扱いに甘んじることを不信仰とし(あるいは悪魔の攻撃とし)、繁栄することこそが正しい信仰の証だとする(そういう意味で、繁栄の神学に通じるところがある)。

 もっとも、すごい体験をすることがクリスチャンの成長の証だとすること自体は、頭から否定できない。たとえば人格が聖書的価値観によって矯正され、より良く変化していくことも奇跡の一つとするなら、それはクリスチャンとして長く信仰生活を送っていなければ起こりにくいからだ。信仰に歩んだ結果、次第に人格的に成熟していく、ということはある。
 また癒しや預言が今日もあると前提しての話だけれど、それらを積極的に行使しようとするなら、聖書的原則を学んでいることや、聖書全体を通読していることなどが大きな助けとなる。そしてそれは一朝一夕にできるものではない。そういう意味で、信仰生活の長さと体験の有無は、ある程度の比例関係にあると言える(もちろん原則的にだけれど)。

 しかし体験至上主義の信仰者らが信じるような、「すごい体験=信仰のゴール=クリスチャンとしての成熟」という図式は、必ずしも成立しない。その図式は昨今のRPGに見られる「レベルアップ」の法則と同じだ。すなわち主人公のレベルが上がっていくと、もう初期の頃の敵と戦っても、絶対に負けない。そのレベルアップは不可逆的で、強くなる一方だからだ。しかし信仰とかクリスチャンの成長とかは、そう単純にいかない。同じような誘惑がいつもあり、同じような戦いもいつもある。私たちは何年たっても同じような失敗をしてしまうし、これで達成したと言えるものもほとんどない。
 その証拠に、内外の著名な牧師らや宣教師らが、不正が発覚して姿を消していくのを、私たちは何度も見ている。

 ダビデが不貞の罪を犯したのも、神によって無数の戦いに勝利させてもらった後の話だ。その意味で、むしろすごい体験をした後ほど、失敗する危険も高いと言える。
 だから神からの「良い」体験は、確かにその人が信仰に歩んだ結果かもしれないけれど、到達点ではない。むしろ通過点であるし、その後どのように歩むかの方がよっぽど重要だと思う。

 しかし牧師を神格化する教会には、そういう考え方がない。信徒にとって牧師は神に最も近い存在、神の代弁者であり、間違えたり失敗したりすることなどないからだ。罪を犯すなどあり得ない、と信じられている。
 あるいはそこまで極端でなく、「いや牧師だって失敗することはあるよ」と牧師自身がフランクに認める教会であっても、牧師が罪を犯すかもしれないという発想自体はタブーだ。また真面目で熱心なクリスチャンほど、そういう可能性について考えられない(考えたくない)。「あんなすごい体験をしている人なのだから、すごい信仰の持ち主であって、俗世的な罪など無縁なはずだ」というような考え方が、そこにはある。

 体験至上主義は、牧師やリーダーだけの問題でなく、教会のシステムや教理の体系、信徒の認識といった要素も絡み合って成立している。牧師が悪意をもって操作している可能性もある。それらを解きほぐすのは、大変な作業だろう。しかしそういう現状を変えられないにしても、その問題意識を持たないよりは、持っている方がはるかに良いだろうと私は思う。

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