教会で礼拝される「神」と、聖書の「神」との相違点

2014年3月18日火曜日

キリスト教信仰

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 キリスト教会は神様を礼拝するところだけれど、時折、クリスチャンらのふしぎな行為や信仰観に遭遇することがある。彼らはいたって真面目だ。しかし彼らの信じる神様と、聖書が指し示す神様とは、どこか違っているように思える。
 彼らが信じ慕う神様について、いくつか挙げてみたい。

・正しく裁けない神様
 海外のある宣教師の自伝を読んだことがある。よく覚えていないけれど、その宣教活動は苦労の連続だったようだ。
 その宣教師はある時、まだ幼い一人娘を病気で亡くしてしまった。彼は悲嘆に暮れて悔い改めた。なぜなら、どこそこへ宣教へ行きなさいと神様に命じられたけれど、それにすぐに従わなかったため、罰として娘を殺されたからだ(彼はそう信じていた)。
 私は違和感を覚えた。自分の不従順のために子どもが罰を受ける、なんて聖書のどこにも書いていない。むしろ逆のことが書かれている。人は自分の罪のために裁かれると。
 その宣教師の信じる神は理不尽かつ不条理だ。自分の要求を一方的に押し付けるだけで、正しい裁きができない。

・不公平な神様
 ある教会が賃貸物件を借りることになった。新事業を立ち上げるためだった。牧師をはじめ何人かの信徒らが祈り、物件を探し、あれこれ話し合った。最終的に一つの物件が候補に残った。さて、借りるか借りないか。牧師は言った。「神がこの物件を借りるよう私に語られました。しかしこの預言は吟味される必要がありますから、皆で一週間祈りましょう。一週間後、皆さんの意見を聞かせて下さい」
 そして一週間後、教会に行ってみると、牧師はすでにその物件を借りていた。牧師は言った。「この一週間の中で主が明確に語られました。待たずに借りるようにと。私はそれに従順して、即座に賃貸契約を交わしました」
 その牧師が言う神は不公平だ。大事なことは一人にしか語らない。しかも吟味する時間を与えない。教会の和より、事業の方が優先である。

・悪魔に勝てない神様
 ある時、3日間の超教派の集会があった。およそ3日間、ぶっ続けで賛美と祈りを捧げた。途中で何度か、ゲスト講師のメッセージがあった。
 ある講師が怖い顔で言った。「この日本を支配する『敵』は、ゴリアテの霊だ。私たちはこのゴリアテを倒さなければならない」
 会衆は大いに盛り上がって、「霊の戦い」をした。戦いと言っても、イエス・キリストの御名を宣言して悪霊を大声で叱りつけたり、やたら力強く賛美したり、手を振って「出ていけ、出ていけ」を繰り返したりするのだけれど。
 そういう戦いを終え、満足して勝利を祝っていると、最後に講師が言った。「日本にはまだ4人の『敵』がいる。私たちは日本のため、まだまだ戦わなければならない」
 つまり、彼らの信じる神様は、悪霊を放置しているということだ。なぜなら、神様には悪霊を倒す力がなく、人間が代わりに戦ってあげなければならないからだ。
 しかし聖書の神は天地万物をつくり、今も全てを治めている。悪霊でさえ神の被造物だ。彼らの神とは根本的に違う。

・ブラック企業のオーナーみたいな神様
 ある教会の献身者の一週間をみてみると、まったく休みがないのがわかる。月曜から土曜まで、朝から晩まで奉仕でビッチリだ。日曜は礼拝だけだと思ったら大間違いで、日曜こそ絶頂に忙しい。しかし休みがほしいなどとは言えない。神はクリスチャンが誰よりも多く働くことと、それによって神の計画が実現することを願っているからだ(牧師にそう指導される)。だから休むのは不信仰なことに思えてならない。いや、不信仰なのだ。

 しかし聖書の神様は、一週間の最後の日を休むように定められた。敵から逃れ、疲れ切って死を覚悟したエリヤには、パンと水と休息を与えられた(列王記第一・19章)。休むことを禁ずる神と、休ませる神。あなたはどちらを信じたいだろうか。

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