信徒に「負荷」をかける牧師の「余計なお世話」

2014年3月9日日曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 教会の成長というか信徒の成長を願う牧師に、信徒に負荷をかけることでそれを実現しようとする人がいる。その信徒には少し力不足なこと、無理しなければできないことをあえてさせて、限界を越えさせようとする。その結果、その信徒はできなかったことができるようになり、「立派に成長した」と言われることになる。

 負荷をかけて成長させる、というのはビジネスの世界ではよく言われることだ。しかしそれがそのままクリスチャンの成長に適用されるのはおかしい。なぜなら、能力的にできなかったことができるようになるのは確かにスキルアップではあるけれど、聖書が言うクリスチャンとしての成長とは全然関係ないからだ。

 そういう牧師の言い分は、要するに「獅子の子落とし」とか「かわいい子には旅をさせろ」とかいうようなものだ。甘やかしたばっかりに苦労を知らず、何の成長もなく大人になってしまう子の方が悲劇だ、だったら苦労させて立派に成長させた方がいい、という訳だ。

 しかし、それは親子の関係なら確かにそうだろうが、その理屈を赤の他人である牧師と信徒の関係に持ち込まれても困る。簡単に言うと「余計なお世話」だ。できないことができるようになるのは確かに良いことだろうけれど、それを望まない場合だってある。たとえばピアノ伴奏が好きで奉仕をしている信徒に、「もっと成長の可能性があるから」とかいう理由でまったく関係ない会計処理とか渉外とかの奉仕をさせるのは、いい迷惑でしかない。それを「成長のためだ」と言い張るのは、牧師の身勝手な独りよがりだ。「これは神が望んでいることだ」とか言うのは、信徒に断わらせないためだ。しかし、全てのクリスチャンには(のみならず全人類には)自由意思と選択の自由が与えられており、たとえ神様ご自身に直接何かを頼まれたとしても、我々には断るという選択が保障されている。神の要請を断るのは罪でもないし不信仰でもない(もちろん、明確に罪だとされる行為においては別だけれど)。
 だからもし「これは神の要請だから断ることはできない」などと言う牧師がいたら、その人には牧師としての資格はない。

 教会の成長とか信徒の成長を、おかしな方向で実現する教会が増えているように思う。何かの事業を始め、信徒をそれに従事させることで「実践的な」成長を促そうという方向だ。しかしそれは先に書いたように実務的なスキルアップでしかない。あるいは望まないスキルアップでしかない。少なくとも聖書的な成長ではない。しかしそういうことを教えられない信徒には、そんな判断はつかない。

 もちろん成長にはある程度の負荷が必要だと思う。しかし少なくとも、上記のような負荷は教会にもクリスチャンにも必要ない。それは負荷と言うより強制であり、虐待である。

QooQ