神に良いものだけを要求する、「体験至上主義」信仰の卑しさ

2014年3月27日木曜日

「体験至上主義」に関する問題

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「体験至上主義」信仰について私は何度か書いているけれど、まだまだ書く必要があると思っている。

「体験至上主義」信仰は、一にも二にも「何が起こったか」「神がどう働かれたか」という体験を重視している。彼らの主張は「神は今も生き生きと働いておられる」というもので、それ自体を私は否定しないけれど、彼らの場合「だから今日も素晴らしい奇跡の御業が起こる」と続く。つまり毎日毎日、神の奇跡的な何かが起こることが、「神が生きて働く」ことだと信じているのだ。だから、何も起こらないとしたら、その信仰生活は、彼らにとって「死んでいる」ということになる。

 ではそう言う彼らが日々どれだけ素晴らしい体験をしているかと言うと、これが判然としない。礼拝でバカ騒ぎをしてハイテンションになったのを「主に触れられた」と言い張ったり、癒しの祈りをしてもらうと「良くなった気がする」と超ポジティブにとらえたり、皆で頑張って仕上げた仕事を「主の御業だ」としたりする。結局神様がどう奇跡的に働かれたのか、という点で明確に証明できないことがほとんどだ。その多くは感覚的で、気分次第、見方次第で何とでも変わり得るものばかりだ(もちろんそうでないこともあると私は信じているけれど)。

 確かに、聖書には神様の数々の奇跡が記されている。そういう奇跡を見たいと願うのは人間の性だし、神様を信じるクリスチャンであれば尚更だろう。ペンテコステの日以降のペテロやパウロの活躍に憧れるのも理解できる。けれどそういう聖霊体験を求めて、上記のような判然としない体験モドキを並べ立てるのは何とも痛々しい。

 それにその手の聖霊体験が、信仰のゴールなのではない。パウロが書いている通り、どこまで経験したから信仰を達成できた、ということにはならない。何をどれだけできたかで信仰を測る考え方は、律法主義だ。聖霊体験をした後にそれを裏切ったサウロの例もある。神様がして下さることを体験できるのは確かに素晴らしいことだけれど、それより自分が神の前にどのような存在であるのか、どう生きるのか、どう変えられていくのか、ということの方が、よっぽど重要だと私は思う。そして今までの自分にできなかったこと、たとえば困っている人に声をかけられないとか、どうしてもある種の人に優しくできないとか、そういうことができるようになることだって、神の御業の立派な体験だと思う。

 聖書の登場人物一人一人の人生を見てみると、神の華々しい奇跡の連続の中を生きた人などいないのがわかる。むしろ彼らの人生は長いこと不遇だったり、孤独だったり、誰の目にも留まらない地味なものだったりした。大きな御業を体験したペテロやパウロの最期はどうだっただろうか。聖霊に満たされたステパノの最期は、悲惨なものではなかったか。
 彼らはその人生のある時期、確かに素晴らしい神の御業を体験したけれど、それは彼らが歩むべき行程の一部分でしかなかった。それより神様は、良いも悪いも含めて、彼らの人生の全てに働いておられる。何が起こっても起こらなくても、本人がどう感じても感じなくても、その人生の軌跡そのものが、神の御業の結果なのだと私は思う。

 そういう意味で、「体験至上主義」の信仰者らは、奇跡の御業や癒しの御業など、良く見えるもの、きれいなもの、聞こえの良いもの、得なものだけを求めていると言える。つまり神様に、良いものだけ要求している。しかしそれは残念ながら、キリストの道に歩むことではない。

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