超具体的な「個人預言」にひそむ、恐怖の運命論

2014年3月15日土曜日

「預言」に関する問題

t f B! P L
「個人預言」という種類の預言がある。預言を強調する教会では日常的に語られている。特定の人物の特定の状況に対して、神が特別に必要と認めて啓示するという、極めて限定的で個人的な預言のことだ。

 預言の存在を完全否定する教団教派もあるけれど、まったく存在しないとするのもどうかと私は考えている(といってもそれについて議論する気はない)。しかし、現在いろいろな教会で語られている個人預言について聞いてみると、違和感を覚えずにいられないのも事実である。

 ある教会は、信徒の進学や就職、転職に際して、「〇〇大学で勉強している姿が見える」「△△会社に就職して成功する」「××会社(現在勤めている会社でない会社)で働いている姿が見える」など、かなり具体的な預言をしている。実際にそういう個人預言を受けたクリスチャンを何人か知っている。彼らはそれぞれ、受けた預言をどう扱うべきかと困惑しているようだった。

 私はそこまで具体的ではなかったけれど、似たような種類の預言を受けたことが複数回ある。だからその気持ちが少しは想像できる。

 そこには一つには、自分で選択しなくていいという「楽さ」がある。あれこれ迷うことなく、進路を決められる。それを選ぶに値する明確な理由も必要ない。ただ神を信じている、その神は自分に利益をもたらしてくれる、それだけが理由だ。もちろん、その個人預言が100%神からのものであると信じていればの話だけれど。

 もう一つには、「運命論」的な違和感がある。自分の未来はすでに決まっていて、どうにも逃れることができない、どう進んでもそこに至る、という「運命」を突き付けられたような感覚だ。それは恐怖でもある。あえて全く別の道を進んだらどうなるのか、裁かれるのか、祝福を失うのか、地獄に落ちるのか、というような恐怖だ。
 また、それは選択の自由を失わせる。何をしてもその預言の通りになるとしたら、人には選ぶ権利などない。しかしそれは聖書的にも矛盾する。たとえばその理屈が通るとしたら、イスカリオテのユダは、裏切り者として運命づけられていて、それゆえキリストを裏切らさせられた、ということになるからだ。すると彼は心ではキリストを裏切りたくなかったけれど、神によって一方的に決められた運命の力により、裏切らざるを得なかった、ということで、彼に罪はない。そして逆に、神がユダに汚れ役を無理矢理やらせ、挙句の果てに地獄に落としたということにもなってしまう。

 
 具体的な個人預言は、時として必要とされるかもしれない。その可能性は否定できない。けれど、人生の節目の度に次はここ、その次はここ、と運命のように語られ続けるとしたら、それはどこかおかしいと考えるべきではないだろうか。
 もしその運命論的な個人預言の全てに従っていくとしたら、その人生はいったい誰の人生なのだろうか。少なくとも、その人自身の人生ではないだろう。

QooQ