教団教派によっていろいろかもしれないけれど、終末論には「携挙」という言葉が登場する。患難時代の到来の前後(そのタイミングには諸説ある)のどこかで、クリスチャンが超自然的に天に挙げられる、という現象のことだ。このとき天に挙げられるのは「本当のクリスチャン」だけで、世俗的だったり中途半端だったりするクリスチャンらは地上に取り残される、という。「だから本当のクリスチャンでなくちゃ」とか「携挙されなかったらどうしよう」とかいう会話が、この学びの後は盛んに聞かれたりする(多くは笑い話としてだけれど)。
しかしそういうのを笑い事でなく、いたって真剣に主張するクリスチャンもいる。「本当のクリスチャンでなければ携挙の時に泣くことになるぞ」ということで、「本当のクリスチャン」になる方法をレクチャーする。レクチャーといっても「いつも神様と親しく交わっていよう」とか「いつも御心を行っていよう」とか「いつも備えていよう」とか、抽象的な努力目標を掲げるだけだけれど。
私に言わせれば、そういう主張は人々を恐怖に陥れるだけだ。「本当のクリスチャンか、そうでないか」の二元論に人々を引き込み、前者でなければならないという恐怖にかられた競争に、無理矢理参加させるからだ。そして、私の方がよく祈っている、私の方が多く奉仕している、私の方が大きく用いられている、という感覚がなければ決して安心できないようにさせる。
聖書は、信仰の競争で他のクリスチャンらを追い越し、勝ちなさいとは言っていない。むしろ逆のことを言っている。自分は罪ある人間だ、本当にダメな人間だ、神の憐れみなしには生きられない人間だ、という悔いた心を持つことを勧めている。そしてそれはある意味で、「敗北者の心」だと思う。
上記の「本当のクリスチャン」であろうとする人々は、よく祈っているだろうし、よく礼拝しているだろう。神の声を聞き、それに従おうとしているだろう。しかし、それらの行為をもって「自分は本当のクリスチャンだ」と自負している時点で、悔いた心を失っている。自分を勝者としているからだ。
そういう意味での「勝者」と「敗者」を聖書がどう扱っているか、最後に引用したいと思う。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者でなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分に一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカの福音書18章10-14節・新改訳)
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