「神が愛ならどうしてこの世に苦しみがあるのか?」という問いについて考えてみた

2014年3月6日木曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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「神が愛なら、どうしてこの世は苦しみ、悲しみで満ちているのですか?」という質問に、ハーベストタイムで有名な中川健一師が3分で答える動画がある。

http://seishonyumon.com/movie/1812/

 正確に言うと、この動画は先の質問に明快に答えている訳ではない。代わりにヒントとなる3つのポイントを、聖書から挙げている。わかりやすく、しかも3分で終わるからお勧めだ。

 この中川師の説明に私は同意している。それより私が考えさせられたのは、この質問そのものが的外れなのではないか、ということだった。

 この質問は、神が愛なら人を決して苦しめないはずだ、という前提から出発している。しかし質問者が愛や苦しみについてどう考えているかがよくわからない。もし全人類がいっさい苦しまないようにすることが愛だ、と言うのなら、人類は自由意思を持たないロボット集団でなければならない。それぞれに嗜好や価値観の違う全ての人間を苦しませない方法は、それ以外にないからだ。しかしロボット集団であるなら、苦しまない代わり、喜んだり笑ったりすることもない。

 どんな状態が「幸せ」「満足」「安心」であるかは、人それぞれ違うだろう。しかしそれらが存在するのは、そうでない状態(たとえば苦しみ)が存在するからに他ならない。苦の時間を通るからこそ、その後に訪れる楽の時間が貴重なものになるのだ。もし苦が一切ないとしたら、そこにあるのは楽ではない。楽かもしれないが、当の本人はそう感じることができない。たとえば仕事の合間の休憩時間は嬉しいだろうが、一日中休憩時間だとしたら暇なだけだ。嬉しくも何ともない。

 だから「神がいるならこの世に苦はないはずだ」というのは、矛盾した論理なのだと私は考える。それは「天国」という、この全宇宙を支配する全ての法則を超越した場所でなら、実現するはずだ。しかし現在私たちが生きているこの世界では、やはり苦楽がある。苦があるから楽があり、楽があるから苦がある。なんだか「水戸黄門」の歌みたいなフレーズになってしまったけれど、その両者は、互いの存在に支えられて存在している。ちょうど光があるから闇があり、闇があるから光があるように。

 私は楽しいことや嬉しいことを体験したいので、苦しいことや忍耐すべきことも通らなければならないと思っている。もちろん理不尽な苦しみや悲惨な災いは避けたい。けれど残念ながら、避けられないことはあるだろう。しかしだからこそ、私たちは神を信じ、彼に頼るのではないだろうか。

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