献身者に「社会経験」は必要かどうか、というナンセンスな論点。

2014年3月5日水曜日

キリスト教信仰

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 若くして神様に「献身」しようとする人がいる。彼らは高校や大学を卒業した後、内外の神学校に行き、卒業とともに教会での献身生活に入る(もちろん皆が皆そうという訳ではない)。だから彼らは多くの場合、一般的な「就職」を経験していない。
 聖書にも彼らのような人物が登場する。たとえばサムエル。幼いころから神の宮で祭司に仕え、そのまま大人になった。中世ヨーロッパにもいる。一定の学業を終えてそのまま修道院に入り、そこで一生を過ごした。

 今日、一般企業や官公庁でサラリーマンとして働くことは「社会経験」と表現される。そういう意味だと、上記の彼らには「社会経験がない」ということになる。そしてそれを問題視する声が、キリスト教界には少なからずある。

「クリスチャンは社会経験を積んでから献身するべきだ。でないと、社会人の苦労や気持ちがわからないから」

 その意見はもっともで、私も同意する部分がある。しかし、ではどれくらいの社会経験があればいいのかという点で疑問がある。社会経験が十分にあるから良い献身者になれるとは限らないからだ。それは全ての経験豊かな社会人が真面目なのでなく、立派なのでなく、品行方正なのでないのと同じだ。逆に社会人一年目でも非常によくできた、人格的な人物はいる。だから「十分な社会経験→立派な献身者」という図式は、必ずしも成立しない。

 では献身者に社会経験は不要かと言うと、それも一概には言えない。たとえば神学校を卒業してすぐ牧師になり、単立教会を開拓した人がいるとする。彼には就職して働いた経験がない。それ自体は問題ない。けれど彼には、誰かの下で働いた経験がない。彼は最初から教会の長であり、信徒をまとめるリーダーであり、皆にものを言う立場であって、言われる立場ではないからだ。ビジネスの世界には「人に使われた経験のない者は人を使うことを知らない」という言葉があるけれど、それはかなり的を射ていると私は思う。その牧師は、人を導くということが本当にはわかっていない可能性がある。その場合、彼には一定の社会経験が重要な意味を持つ。

 献身者に「社会経験」は必要か、どうか。

 私はこの問題の原因は、そういう個人の資質というより、その構造にあると思っている。社会経験を積んで一定の人格的基準を満たしたから献身者になれる、というのは短絡的だ。人間というのは良くも悪くも変化するからだ。ある時点で良い人間だから、その後もずっと良い人間であり続けるとは限らない。状況によって人は変わる。もし自分に意見する者がなく、全て思い通りにできるとしたら、その人はいつしか堕落するだろう。しかしそれは彼個人の責任とは言いにくい。そういう状況であったことが、大きく影響しているからだ。

 人は必ず間違える。必ず失敗する。悪くなる時もある。それが人間だからだ。ある基準に達したと思われる人物に全てを託すのは、賢明ではない。その人物のその後はわからないからだ。
 相互に監督し合う構造がなければ、その組織の永続性は危うい。そしてそこでは、社会経験の有無はあまり重要ではない。しかしその方が良いと私は思う。社会経験の有無でいろいろ言われるのは、結局のところ、その人を肩書や経歴でしか見ていないことだと思うからだ。

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