「感じたことを自信をもって語る」預言について

2014年3月17日月曜日

「預言」に関する問題

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「預言」についてまた書く。今回は預言が語られる経緯についてだ。

 預言を強調する教会は、預言を語るには訓練が必要だと言う。そして教会独自の訓練会みたいなもの開いたり、他教会に対してもオープンな「預言者学校」を開いたりする(学校といっても非公式なものだけれど)。
 それらで一定の訓練を受けたクリスチャンらが、インターン預言者みたいになって預言活動をするようになる。ある者は「預言者」としての頭角を現し、大いに「用いられる」ようにもなる。

 そういう預言者訓練のキモは、要するに「感じたことに自信を持て」だ。祈りの中で、何となくこんなイメージ、こんな言葉、こんな感覚、といったものを感じたら、それを迷うことなく、自信を持って語りなさい、恐れてはいけない、と言う。祈っている時なのだから神からのものをキャッチするはずだ、というよくわからない根拠が付け加えられる。

 しかしそういうことで語られる「預言」とは、完全なる「感覚頼み」でしかない。その証拠に、個々の「預言」を聞けばわかるけれど、誰にでも当てはまりそうな抽象的なものが多い。たとえば、「今のあなたの問題は、幼少期の親との関係に原因がある」とか、「あなたも覚えていない過去の経験が深い根となって、あなたを苦しめている」とか。それらに当てはまらない人の方がよっぽど少ないだろうと思う。あるいは多少具体的だからといって、信憑性が増すとは限らない。祈り手が相手のことを個人的に知っている場合があるからだ。

 時々、ゲストとして招かれた「預言者」が、初めて会った相手に「預言」し、「ピタリと言い当てた」という話を聞くことがある。大いに感動してそう話す人がいるけれど、どこまで具体的だったのかよくわからない(もちろん本当かもしれない)。感動が大きすぎて、内容についてはあまり吟味していないようだ。
 しかしそう話す人のその後がどう改善されたか、という点で見る限り、その「預言」が効果的だったとは考えにくいケースが多い。

「感じたことを自信をもって語れ」と言われたら、インターン預言者は気が楽になるだろう。ふと心に浮かんだことを「主からのもの」と信じて語る訳だから、ある意味で簡単なことだ。威厳をもって、それらしく語ればいい。相手は初めから主からのものだと信じて聞いているのだから(そういう人しか預言を受けようと思わないだろう)、語り放題だ。ただし、明らかにおかしいことは言えないから、ある程度抽象的に、曖昧に、オブラートに包んで語らなければならない。
 しかしそれさえうまくできれば、立派な「預言者」の誕生である。

 あるいは「預言は吟味するようにしている」と言うかもしれない。しかし吟味の方法については語られない。「聖書と照らし合わせる」など言うかもしれないけれど、非常に抽象的だ。だいいち、たとえば牧師が「預言」した内容について、まわりにいる信徒らがどう吟味できるだろうか。異論、反論を述べられるだろうか。仮にできたとして、牧師に簡単に押し切られないだろうか。

 現在の「預言」には、教会のヒエラルキーが大きく関与している。上位の人間が語る「預言」には権威が付与され、信憑性が増し、吟味するまでもなく正しいとされる。下位の者の「預言」は、上位の人間の支持を得なければ通らない。
 しかしいずれにせよ、それらの預言の多くは(ほとんどかもしれない)、感覚頼みかつ自信過剰という背景で語られたものばかりだ。神など関係していない。

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