「特別な祈りの期間」にひそむヒューマニズムや律法主義

2014年3月12日水曜日

「特別な祈り」に関する問題

t f B! P L
「特別な祈りの期間」について、3回目になるが書きたい。

 人生の分岐点に際して、神からの特別な啓示や指示がほしい、それに従いたい、というような動機から、あるクリスチャンらは「特別な祈りの期間」に入る。断食したり、一晩中祈ったり、人里離れた所に引きこもって祈ったり、というようなことをする。彼らの願いは、その期間の途中か最後に、何か劇的な形で、神に語られることかもしない。選択にあれこみ迷い、悩み、苦しんだ末に神から語られる――さぞかし感動的な体験だろう。しかし、ずいぶん演出がかっている。以前書いた「劇場型信仰」に通じるものがある。
 それにその思考は、何度も書いたように、自分の都合でしかない。神を立てているようで、実は神を召使のように使おうとしている。その意味で、神中心でなく人間中心、つまりヒューマニズム的な信仰だと言える。

 またそこには、重要な局面においては十分に集中し、時間をかけて祈らなければ、神は語られない、という考え方がある。つまり、人間の側の努力がなければダメだ、ということだ。
 しかし残念ながら、聖書はそういう信仰の姿勢を「律法主義」と呼んでいる。

 神はいつでも語ることができるし、いつでも働くことができる。人間の側の何かを一切必要としていない。相手が罪深いからだとか、不信仰からだとか、そういうことで語られないということもない。逆に、相手が完璧な信仰を持っているとしても、だから優先的に語るということもない。神は神のタイミングで、神の考え方で、何かをするだろう。そのタイミングを、人間があれこれ指図すべきでない。信仰的な姿を見せることで、操作しようとすべきでない。

 ルカ19章には、ザアカイという取税人が登場する。彼は取税人として数々の不正をしてきた。その彼の町に、イエス・キリストがやってきた。群集がキリストを囲んだ。ザアカイは木に登ってその様子を見ていた。群集の中には信仰的な人物が大勢いただろう。キリストの関心を引きたいという人も大勢いただろう。しかしキリストが声をかけたのは、木の上のザアカイだった。

 聖書を読んでみると、ザアカイのように神に「特別に語られる」体験をした人物が多く登場する。しかしそういう彼らが語られるために特別に祈っていたかというと、決してそんなことはない。ペテロは漁師として網を繕っている時に、キリストに声をかけられた。ダビデは羊飼いとして野にいる時に、預言者サムエルに呼ばれた。普通の人が普通に働いている、そのいつもと変わらない平凡なタイミングで、神の特別な介入があった。そしてそれは彼らの努力や願望の結果ではなかった。彼らは毎日コツコツ、地道に働く、目立たない人々だった。ほとんど誰にも知られない存在だった。

「特別な祈りの期間」というのは、人生のある特定の時に、必要になることもある。しかしその動機が、上記のようなヒューマニズム的信仰だったり、律法主義だったりするとしたら、その祈りには意味がない。むしろ祈らない方が、神を冒涜しないで済むだろうと思う。

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