的外れな「特別な祈りの期間」

2014年3月11日火曜日

「特別な祈り」に関する問題

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 人生の分岐点にさしかかり、どうすべきか神に祈りうかがう、というのはクリスチャンならではだろう。
 それが重要な決断であればあるほど、神に答えてほしい、教えてほしいという願いは切実になる。そして決断すべき期限までの日々を、特に祈ることに費やす。実際、多くのクリスチャンがそのような「特別な祈りの期間」を持つのを、見聞きしてきた。

 そういう期間に神からの何らかの示唆を受け、そして決断に至ったという話も聞いたことがある。それはそれで良かったのかもしれない。しかしこのブログでも何度か書いてきたように、「神の導き」をそういう「分岐点ごとに受ける指示」みたいに扱うのに私は違和感を覚える。それはまるで自動車学校の中で、隣にいる教官の指示に従って車を走らせるようなものだからだ。同じ運転でも、一人で路上を走るのとはぜんぜん違う。

 大事な決断だから十分に祈りの期間を持つ、というのは根本的には間違っていない。けれど、それを「特別な祈り」と位置付けて、神に語られるまでは絶対にやめない、何が何でも語ってもらうんだ、という姿勢はどうなのだろうか。敬虔なのだろうか。信仰的なのだろうか。

 その姿勢の背後にある危険性は、期限を過ぎても結局何も語られなかった場合に現れる。この日までに神の指示がなければならない、でも何もない、という場合だ。その時落ち込みやすいのが、心に浮かんだ適当な聖書箇所を取り上げて「主がこう語られた」と言い張ることや、何らかの偶然をこじつけて「主がこう願っておられる」と決めつけるという類のことだ。それは私風に言うと、「御心の捏造」「勝手な思い込み」だ。

 この「神に語られるまで祈りをやめない、決断しない」という姿勢を見て連想するのが、使徒行伝23章21節である。
「どうか、彼らの願いを聞き入れないでください。40人以上の者が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと、誓い合って、彼を待ち伏せしているのです」(新改訳)

 パウロ暗殺を目論むユダヤ人たちが、それを成し遂げるまでは飲み食いしないと誓い合ったという。しかしパウロはこの後、少なくとも数年間は生きている。彼らはその間、飲み食いしなかったのだろうか。
 もちろん、彼らは神に対して誓ったという訳ではないかもしれない。しかし、この「〇〇するまでは××しない」というのはあくまで自分らの都合だ。こうしたいという願望を、押し通そうとしているに過ぎない。駄々をこねる子どもと同じだ。祈って絶対に神に語ってもらおうとするクリスチャンもこれと同じで、一方的に神を利用しようとしているだけだ。神に対する配慮など、そこには一切ない。

 その結果何も語られなくて、「神が語ってくれない」と言うのは逆ギレだろう。あるいは「神はこう語っておられる」と勝手に決めつけるとしたら、もはや神など関係ない。

 神は確かに語られるお方だけれど、その時語る語らないは、神ご自身が決めることだ。だいいち、神は聖書を通して、すでに十分なくらい多くを語っておられる。神に語ってほしいと願うならば、まずは聖書を読むべきだろう。

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