今日の生き方が明日を決め、人生を決める、という話

2014年3月8日土曜日

生き方について思うこと

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 アメリカ人の登山家アーロン・ラルストンは2003年、ユタ州の渓谷で事故に遭った。落石に右腕を挟まれ、無人の渓谷の底で脱出不能となったのだ。4日間の葛藤と試行錯誤の末の5日目、彼は死を覚悟しつつ、自ら右腕を切断した。そして奇跡的に生還を果たすことができた。この事故の経過は2010年に『127時間』というタイトルで映画化されたので、私たちはその詳細を見ることができる。

 その事故はアーロン自身が認めている通り、自業自得とも言える。行き先を誰にも告げず、たった一人で危険な渓谷へ入っていったからだ。死を覚悟した時、彼はそれを「因果応報」という言葉で結論付けている。これは自分の行いが招いたこと、自分が悪いのだ、と。そして次のように告白する。

「俺の人生は今日までずっと、生まれた瞬間から、呼吸の一つ一つ、日々の行いが、すべて繋がっていたんだ。この大地の裂け目へと」(『127時間』吹き替え版より)

 自分の今までの全ての行いが繋がっていて、その渓谷で落石事故に遭うに至った。そういう意味でこれは偶然ではない。自分の生き方が招いた結末だ、という意味だと思う。私はその言葉に妙に納得した。

 たとえば強い反社会的な願望を持っていて、どうしてもそれをせずにいられない、という人がいるとする。その人は遅かれ早かれ、その願望を行動に移してしまう可能性が高い。そうせずにいられないからだ。そしてその行動の結果を負うことになる。その時になって後悔するかもしれない。しかし同時に思うのは、やはりそうせずにはいられなかったのだ、これはなるべくしてなったことだ、ということではないだろうか。それは自分の行いが積もり積もってできた結果であって、どうしても避けられないのではないだろうか。

 上記の例は悪いケースだろうけれど、これはあらゆる「結果」について言える。ある人の社会的な成功は、それまでの地道な努力の結果だろう。難関校に合格できたのは、膨大な学習の結果だろう。何であれ、人がある地点に到達するのは、決して偶然によるのではない。なかには偶然の作用もあり得るけれど、多くは、そこに至る道筋なしに到達するのではない。

 だから今日一日の自分の行動は些細なものかもしれないけれど、それらが積もり積もったところに、未来の自分がいる。そこから遠くかけ離れた未来などない。かけ離れた未来が欲しければ、今この瞬間から、その方向に軌道修正しなければならない。でないとそこには到達しない。

 人生の中である地点に到達し、ふと振り返った時、そのことに気づくかもしれない。その時後悔がなく、これで良かったんだと心から思えるような生き方でありたいと私自身は願う。そしてそれは今日一日の生き方、明日一日の生き方を考えることから始まるのだと思う。

追記)
 聖書的に言うならば、これは「行いの実を刈り取る」ということだと思う。人間は何であれ、自分のしたことの結果を、自ら受けることになる。逆に言うと、しなかったことの結果は決して見ることがない。

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