ところで教会の「成長」というのも抽象的だ。
ではその信徒の内的変化を、どのように測ればいいだろうか。
・牧師がいる時といない時とで、信徒の様子が変わるかどうか
特に信徒の奉仕の姿勢が、牧師がいる時といない時とで、大きく変わる場合がある。次のような相違点が見られる。
牧師がいる時:熱心、積極的、一致、緊張、恐怖・・・
牧師がいない時:手抜き、消極的、不一致、リラックス、安心・・・
もちろん、指導者の存在はその場の雰囲気を変え得る。しかし、その変化が露骨なまでに大きいというのは、良くも悪くも牧師の影響が大きいということだ。普段から牧師の指導や介入が過剰で、信徒の側も細部に至るまで指示や許可を仰がねばならない程、依存過剰になっているかもしれない。それが良い形で機能しているならば、牧師がいると安心できて、いないと不安になるだろう。しかし介入過剰な牧師の教会は、その逆が多い。
牧師が長期休暇で不在でも、教会が通常通り機能し、そのクオリティも維持されるとしたら、その牧師は良い仕事をしているのだと私は思う。その教会は牧師を必要としていないのではない。牧師が適切な指導をしているだけだ。
逆に教会活動のほとんど全てが牧師頼みだったり、牧師の確認がなければ動かないとしたら、それは例えば、モーセが率いたイスラエルの民のようだ。モーセがいなくなるとすぐに、的外れな方向に傾く。
そのようなケースは士師記に多く見られる。民は指導者がいなければ神に従えない。指導者がいなければバラバラになり、好き勝手なことをする。しかし今は新約聖書の時代であって、全てのクリスチャンが祭司であり、聖書を読むことができ、神に仕えることができる。神と自分との間に、牧師を挟み込む必要はない。
そういう認識を信徒一人一人が持ち、かつ牧師の適切な指導があることで、教会は「成長」していくのではないかと私は思う。
いつも牧師の目を気にし、何をするにも牧師の反応を注視する信徒がいる。牧師が部屋に入ってくると途端に緊張し、背筋が伸びる信徒がいる。牧師が否定するとすぐに自分の発言を撤回する信徒がいる。そういう彼らが「成長」するとしたら、それは牧師の機嫌を取り、牧師に気に入られるスキルの上達でしかない。
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