極端な終末論者について思うこと

2014年3月23日日曜日

「終末」に関する問題

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 極端な終末思想についてもう少し書きたい。

 私が言う「極端な終末思想」とは、単に終末を強調するだけでなく、終末の時期を具体的に指定したり、それに向けて実際的な準備をしたりすることだ。
 しかし聖書が終末の日時を「誰も知らない」と言っている以上、それらの行為は聖書的とは言えない。くわえて私が問題に感じるのは、「実際的な準備」の方だ。

「終末に向けた実際的な準備」と聞くと、何だか信仰的で、敬虔な行いのように聞こえる。けれど、果たして本当にそうだろうか。

 極端な終末論者の「準備」とやらを見てみると、「ダビデの幕屋の回復」を目指して24時間の礼拝をしたり、イスラエルに行ったり、ユダヤの慣習を真似たり、「預言的なアクション」をしたり、「霊の戦い」をしたり、というのがある(それら一つ一つの是非についてここでは触れない)。

 それらの行為に見られる、彼らの究極的な目標が「主との親密さ」にあることがわかる。
「終末に向けて、私たちはますます神の子として主と交わり、敏感に主からの啓示をキャッチしなければならない」と彼らは言う。そしてその結果、上記のような方法論に走る。だから要するに、彼らにとっての「終末に向けた実際的な準備」というのは、「主との親密さ」を深めることなのだ(それ自体は悪くない)。
 しかしそれは、何も終末が近いからとか、危機が訪れるからとか、そういう理由で求めるべきものではない。終末が近くても遠くても、私たちは主と親しくあるべきだ。きよくあるべきだ。いつも悔い改め、へりくだっているべきだ。彼らのように「終末が近いから身を引き締めて祈らなければ」と言うのは、たとえれば期末テストの前夜になってようやく勉強を始めた学生みたいなものだ。「ヤバイからやる」というスタンスであって、心から神様を求めているのとは違う

 またその態度は、「世の終わりはいつくるのですか」とイエス・キリストに尋ねた弟子たちのそれと同じだ。神が共におられることよりも、終末の患難がいつ自分たちに降りかかるかの方を気にしている(それは人間として当然のことだけれど)。しかしそれに対する神の返答を読めば、終末の時期についてあれこれ思い悩むのを望んでおられないのは明白だ。それよりも、いつ終末がきてもいいような生き方をすることを望んでおられる。私はそう信じている。

 終末論者が「終末だからあれをすべきだ」「終末だからこれをすべきだ」と主張するのは自由だ。神様もあたたかい目で彼らを見ておられると思う。しかし終末後の世界で、彼らが今望んでいるような待遇を受けられるかどうかは、決して保障されてはいないと私は勝手に思っている。

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