「超自然的な歩み」を願うクリスチャンらがいる。神の超自然的な働きにより、自分たちの「平凡な日常」が、「奇跡的な非日常」に変わるのを熱望している。そのために熱心に祈っている。そしてそれこそが正しいクリスチャンの歩みだと信じている。
信仰がただの概念でなく、形式的あるいは習慣的なものでもなく、実際に体験すべきものだとする姿勢自体は、間違っていない。しかし行き過ぎると、体験至上主義になる。体験することが全てで、できなければゼロ、という信仰の姿勢だ。
その問題点を5つ挙げてみたい。
・体験=霊的成長
神の肉声を聞いたとか、天使の羽が降ってきたとか、何かの奇蹟を体験したとか、そういうことが霊的成長の証明とされる。つまりクリスチャンとして成長したから、こんな体験ができるのだ、という発想がある。
・体験できない=不信仰あるいは罪がある
反対に、体験できないのはその人に何か問題があるからだとされる。不信仰だったり、隠れた罪があったり、「家系的な呪い」があったりと決めつけられる。
・だから体験しなければならない―体験のための試行錯誤
彼らにとって体験が全てである。何が何でも体験しようとする。そして方々のセミナーに行ったり、集会に行ったり、その手の本を読んだり、体験するために良いとされるものは何でも試そうとする。その姿勢に、新約聖書に登場する「長血の女」の苦労を連想するのは、私だけだろうか。
・体験したという思い込み―体験の捏造
大変な苦労にも関わらず体験できないことがある。しかし先輩クリスチャンとか牧師とかであるなら、当然すごい体験の数々がなければならない。それがクリスチャンとしてのレベルなのだから。それで最終的には、単なる気のせいだったり偶然だったりすることを、神からの不思議体験だとこじつけるようにもなる。
・体験競争―他者との比較
よその教会やクリスチャンの「すごい体験談」を聞いて、いや私はこうだ、私たちの教会はこうだと張り合う姿勢が生まれる。もはや神など関係ない。
・その連鎖
そういう体験至上主義を見て、後輩クリスチャンや子どもたちは「これが本当の信仰だ」と信じるようになる。彼らはすでに体験至上主義の後継者、あるいは伝道者である。
最後に、根本的なことだけれど、体験至上主義は体験を第一に求める。神ご自身をではない。その神から発せられるであろう体験を求めている。これは祖父母を訪ねる孫が、祖父母の安否を気遣ってというより、その財布から出てくるものに期待していることに似ている(もちろん全ての孫がそうなのではない)。それは御利益主義であり、相手に対する無礼である。
神を愛するというより、その神を利用することを愛する。そういう人たちに適用されるであろう聖書の箇所がある。マタイ7章22~23節(新改訳)だ。
「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『私はあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
私はこういう所(教会)に7年もいた。
返信削除まるで、あなたもそこにいたかのようにわかって(熟知して)いる。
本当にその通りであった。
悲しいことだが、そんな所にお金も時間も7年費やした。
そこの牧師も副牧師も今でも同じことをしていて、気づかない。
いったい 誰がその下にいる羊達を助けてあげられるのか?
ネットもあまりみないように。誹謗中傷が多いのでよくない。とそこの牧師から度々忠告された。その中にいると、不思議と間違ったことをしている人に間違っているというのを見ると、誹謗中傷のように見えてくる。気おつけよう。と牧師のトリックにかかる。
羊はいつも他の羊を見ない。(羊は視野がとても狭い為) 牧者をみている。だから、とても忠実でいられる。牧者の 杖(権威) は叩くためのものではなく、落ちた羊を引っ掛けて上げる為の杖だときいている。モーセがたった1回、岩を杖で打っただけで、何故カナンの地に入れなかったのか?少し厳し過ぎはしないか とおもいながら、その事の意味(意図)を知りたいと私は思っている。(誰か教えてー) そういう所には、金も、(ラメ?) 羽根も(ダウンジャッケットからでた?)さすがに、ダイヤは降ってこそこなかったが、(よその牧師が持って)教会にむこうからダイヤがやってきた。 しかし、不思議 み業 ばかりで 実がない。今になって思えば、不思議、み業に振り回せれて7年もいれたが、実がないことに気が付いてそこをでるきっかけにはなったかもしれない。実がならないのも、神のあわれみだと思える。なぜなら、実がなっていたら、私は間違いに気づかなかっただろうし、今でも そこにいたであろうから。
そこの主任牧師に愛がなかったわけではないが、霊的成長だけを追い求めすぎて、その罠にかかった。という見解で私は見ている。
なんとも言えない複雑な気持ちで。