すごい奇跡を体験しても、それが神からのものとは限らない

2014年3月30日日曜日

「体験至上主義」に関する問題

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「体験至上主義」について、3度目になるが書きたい。

 この信仰の在り方のもう一つの問題点は、奇跡と思われる現象・状況に対する十分な吟味がないという点だ。
 たとえば、礼拝中に気づくと床の上に何かの「羽」が落ちていて、「天使の羽が降ってきた!」と喜ぶ人がいる。けれどそれが本当に神様からのものなのか、あるいは人為的なものなのか、あるいは悪霊からのものなのか、という点が十分に吟味されていない。無条件に喜んでいる。そして自分たちの信仰を良しとしている。

 驚くべき奇跡(と思える現象)は、とかく神様からのものだと考えやすい。けれど聖書を見ると、エジプトの呪術者たちのケースのように、悪霊にもある程度の奇跡を起こす力があることがわかる(出エジプト記7章)。だから「天使の羽」やら金粉やら、香ばしい香りやら、そういういかにも聖書的、天国的に見える現象が起きたからといって、それがそのまま神様からの「お褒め」だと決めつけるのは短絡的だ。
 あるいは「神聖な教会堂なのだから、汚らわしい悪霊の力など及ばない」と言うかもしれないけれど、それはちょっと映画の見過ぎだろう。

サタンさえ光の御使いに変装しているのです」(第二コリント11章14節・新改訳)と聖書に書いてある。「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」(第一ヨハネ4章1節・新改訳)とも書いてある。それは、「天使の羽」が降ってきたように思えても単純に信じてはいけない、しっかり吟味しなければいけない、というメッセージに他ならない。

 こういうことを書くと、体験至上主義者は勇んで反論するかもしれない。
「疑うなんて不信仰です。私には神様を試すことなどできません」
 けれど、疑うのと吟味するのとは違う。吟味するのは確認のためだ。「信じる」の反対は「疑う」だろうけれど、「疑う」の反対は「吟味する」にはならない。 その反論は、話をすり替えているだけだ。
 それに、「疑ってはいけない」というのは、何の保障もない状況でも信じることが信仰だ、という文脈で語られている話である(ヤコブの手紙1章)。奇跡的な現象、霊的な現象については、上述の聖句の通り「ためしなさい」と明確に語られている。

「天使の羽」が降ってきた、ダイヤモンドが降ってきた、金粉が降ってきた、と喜んで、クリスチャンらが礼拝している。そういう彼らの目の前にいるのが光の御使いに変装した悪魔だとしたら、なんて皮肉なことだろうか。その礼拝に何の意味があるのだろうか。
 もちろん、そこに必ず悪魔が関与していると言っているのではない。ただ、その可能性は確かにあるのだから、吟味しないのは愚かなことではないか、と言っているだけだ。

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