実現を判定できない「預言ゴッコ」

2014年3月17日月曜日

「預言」に関する問題

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 前回は「預言」が語られる経緯について書いた。今回は「預言」が語られた結果について書きたい。

 何でもそうだけれど、「結果」というのは大切なものだ。預言は特にそうで、語られたプロセスもさることながら、それが本当に実現したかどうかという「結果」が非常に重要になる。聖書は「偽預言者が現れる」と警告しているからだ。

 預言は、未来に起こる出来事も含めて、神からのメッセージだと言うことができる。けれど、それが本当に神からのものだと証明できるのは、それが実現することによってでしかない。しかもその実現が単なる偶然でなく、普通に予測できる範囲の事柄でもないというのが条件となる。
 また、実現したかどうかが判定できない内容の預言であるなら、それが神からのものであるという証明は決してできない。もちろん聖書の言葉をそのまま引用しているなら、神の御心であるのは間違いない。けれど、それを時にかなった預言とするかどうかはまた別の話だ。

 今日語られる預言は、この「実現が判定できない預言」であることが多い。抽象的で、曖昧で、解釈の幅が広い。たとえば「人生の転機が訪れている」と言われたら、当てはまる人は少なくない。そういう預言は非常にグレイである。しかし同時に、無害だとも言える。聞いた人が具体的に影響を受けることがないからだ。では良いかというと、それも疑問だ。聞いた人に何の益も害ももたらさず、しばらくすると忘れられてしまう預言に、いったい何の意味があるのだろうか。

 聖書を見ると、預言がかなり詳細で具体的なのがわかる。日時や場所や方法が指定されている。そして語られた通りのことが起きている。それに比べて今日の「預言」はその反対だ。抽象的すぎて、本当に起こったかどうかわからない。そして、人々に何の変化ももたらさない。これは重要なポイントだ。聞いた人に何の影響も変化ももたらさない預言など、存在する価値がないと思う(何らかの「励まし」にはなるかもしれないけれど)。

 大きな聖会で、大物「預言者」が日本のために「預言」するのを聞いたことがある。やたら長かったけれど、キーワードを挙げるなら、「いつの日か」「新しい波が起こる」「リバイバルが起こる」といったものだ。そこには何の指定もない。だから何の行動にもつながらないし、結果を確かめることもできない。その預言は書き留められても、結局のところ誰にも顧みられない。

 けれど、中には作意を持って「預言」を語り、人々をコントロールしようとする正真正銘の「偽預言者」もいる。それに比べたら、上記のような「預言者」らは無害なだけ、まだ許されるだろう。意味のない「預言ゴッコ」であるのは変わらないけれど。

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