前回は「預言」が語られる経緯について書いた。今回は「預言」が語られた結果について書きたい。
何でもそうだけれど、「結果」というのは大切なものだ。預言は特にそうで、語られたプロセスもさることながら、それが本当に実現したかどうかという「結果」が非常に重要になる。聖書は「偽預言者が現れる」と警告しているからだ。
預言は、未来に起こる出来事も含めて、神からのメッセージだと言うことができる。けれど、それが本当に神からのものだと証明できるのは、それが実現することによってでしかない。しかもその実現が単なる偶然でなく、普通に予測できる範囲の事柄でもないというのが条件となる。
また、実現したかどうかが判定できない内容の預言であるなら、それが神からのものであるという証明は決してできない。もちろん聖書の言葉をそのまま引用しているなら、神の御心であるのは間違いない。けれど、それを時にかなった預言とするかどうかはまた別の話だ。
今日語られる預言は、この「実現が判定できない預言」であることが多い。抽象的で、曖昧で、解釈の幅が広い。たとえば「人生の転機が訪れている」と言われたら、当てはまる人は少なくない。そういう預言は非常にグレイである。しかし同時に、無害だとも言える。聞いた人が具体的に影響を受けることがないからだ。では良いかというと、それも疑問だ。聞いた人に何の益も害ももたらさず、しばらくすると忘れられてしまう預言に、いったい何の意味があるのだろうか。
聖書を見ると、預言がかなり詳細で具体的なのがわかる。日時や場所や方法が指定されている。そして語られた通りのことが起きている。それに比べて今日の「預言」はその反対だ。抽象的すぎて、本当に起こったかどうかわからない。そして、人々に何の変化ももたらさない。これは重要なポイントだ。聞いた人に何の影響も変化ももたらさない預言など、存在する価値がないと思う(何らかの「励まし」にはなるかもしれないけれど)。
大きな聖会で、大物「預言者」が日本のために「預言」するのを聞いたことがある。やたら長かったけれど、キーワードを挙げるなら、「いつの日か」「新しい波が起こる」「リバイバルが起こる」といったものだ。そこには何の指定もない。だから何の行動にもつながらないし、結果を確かめることもできない。その預言は書き留められても、結局のところ誰にも顧みられない。
けれど、中には作意を持って「預言」を語り、人々をコントロールしようとする正真正銘の「偽預言者」もいる。それに比べたら、上記のような「預言者」らは無害なだけ、まだ許されるだろう。意味のない「預言ゴッコ」であるのは変わらないけれど。
私のいた教会は年に2回程預言をもらえる。当たらなくても誰も彼らを責める人はいない。
返信削除当たらなければ、信仰が足りないからだと言われる。沖縄はその宝庫だと思う。
霊的に有名な何なに先生が言っていました的な預言がまかり通る世界だ。気お付けなければ
信仰が薄いからにされてしまう。ならなかった預言はあなたの信仰の薄さではなくて、彼らが偽預言者なだけである。そういったことは そういう教会では、もちろん口にはしないが、少なくても あなたが落ち込むことはない。