主の御顔を慕い求めづらい、「主の御顔を慕い求める」集会

2014年3月26日水曜日

キリスト教信仰

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「主の御顔を慕い求める」という趣旨の集会や大会が超教派的に時々開かれる。集まった人々は熱心に賛美したり祈ったり、大先生の「恵まれる」メッセージを聞いたりする。その様子を写した写真や動画が後日、HPやブログに掲載されることがある。見ると、皆の熱心に「主の御顔を慕い求める」様子がうかがえる。

「主の御顔を慕い求める」というのは、要するに御心を求めるとか、神の導きを求めるとか、神様にだけフォーカスを当てるとか、そういうどちらかというと内向的なテーマであると思う。そういうテーマで集会を開くのはいかにも信仰的かもしれない。しかし経験者として言えるのは、人が大勢集まった中でどれだけ内向できるかは疑問がある、ということだ。

 たとえば賛美奉仕者は、(そういう集会ばかりではないけれど)会衆への奉仕が優先されるうえ、目立つ立場にあり、内向するには妨げが大きい(全くできないとは言わない)。メッセンジャーも同様だ。その他の奉仕者も、基本的に同じことが言える。

 では奉仕される会衆は内向できるかと言うと、そうでもない。
 一番の妨げは、周囲に大勢の人間がいるという点だ。どうしても、まわりの一挙手一投足が目に入ってきて、影響を受けない訳にいかない(その度合いは人それぞれだろうけれど)。特に講壇に立つメッセンジャーの影響は大きい。メッセンジャーが壇上で跪いて長々と祈るのを見せられたら、人前でああいう風に祈るのが正しいものだと思ってしまう(私はそれは謙遜に見せるパフォーマンスだと思っている)。

 また、「主の前に静まりましょう」ということで、会衆全体で一定時間、黙想みたいに静まり返る時間を持つことがある。それは私に言わせれば強制黙想だ。形として黙想することはできるけれど、人に言われたタイミングで、どれだけそれに集中できるだろうか。またそれは祈りに集中している振り、語られている振りにもつながる。
 ある個人が本当に主の前に静まっているかどうかは二の次で、「皆で静まっている」というパフォーマンスを、主催者なりメッセンジャーなりがしたいだけだ。

 第二の妨げは、それが集会であるという点だ。賛美の時間、祈る時間、メッセージを聞く時間、皆で静まる時間、皆で泣く時間、皆で馬鹿騒ぎする時間というのがだいたい決められている。そういう集会のプログラム進行に従うことと、自らの内面に内向していくこととは、単純に考えて相反している。だから内向をうたった集会なのに、全然内向できないまま終わる、ということがある。特に上記のようなプログラム構成であるなら、強制黙想以外に、静まって「主の御顔を慕い求める」時間などない。

 主の御顔を慕い求めるなら、通常なら個人の時間で個人的にすべきだと私は思う。なにも集まって大掛かりにすることではない。もちろん国全体とか地域全体とかで、危急の必要のために祈ったり静まったりする時はあるかもしれないけれど。
 
 主の御顔を慕い求めるために集会を開いたけれど、結局のところ誰も御顔を慕い求める時間を持てず、全員でそういう振りをしているだけで終わるとしたら、それほど馬鹿らしいことはない。それは主の御顔を慕い求める集会でなく、御顔を無視する集会であると私は思う。

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