何とでも言い逃れられる終末論者について思うこと

2014年3月25日火曜日

「終末」に関する問題

t f B! P L
「極端な終末思想」について、3度目になるが書きたい。

 極端な終末思想の特徴は2つある。1つは、終末(主の再臨)の時期を指定しようとすること。もう1つは、終末が近いからという理由で、必死になって準備しようとすること。どちらも神様の御心を無視した、かなり見当違いな、自分勝手な行為でしかないと既に書いた。今回は、その「日時指定」に関する問題を考えてみたい。

 終末の日時指定そのものが御心に反しているのは、聖書を読んだら明らかだ。しかし終末論者たちは、ソドムの破滅を先に知らされたアブラハムの例を取り上げて、神と親しい者には終末の時期も知らされるんだ、という根も葉もない解釈を主張する。そしてそれを補強するため、イッサカルの部族のこととか、特に旧約聖書の細かい部分を持ち出してくる。

 しかしその割に、肝心の日時指定がイマイチだ。「来年か再来年があやしい」などと、かなり幅を持たせている。それでは指定したことにならない。さらに悪いのは、その曖昧な日時指定が過ぎても何も起こらなかった場合の、彼らの言い訳だ。
 彼らが言い訳として言いそうなのは、まずは問題を「霊の次元」に追いやることだ。「見えるところでは何もなかったが、霊的には大激震が起こった。君も感じたろう?」などとまことしやかに言う。霊の次元の話を持ち出されたら、ほとんどの信徒は何も言えない。
 あるいは、「我々が悔い改めたから、主が裁きを思い止まれたのだ」などと言うかもしれない。町全体が悔い改めることで神の裁きを回避したニネベの例を取り上げて、「我々の悔い改めがこの国(この世界)を救った」などと平気な顔で言いそうだ。
 しかし、そんなこと言い出したら何とでも言える。聖書の真理を好き放題に曲げているだけだ。

 そうやって言い逃れた彼らは、しばらくはおとなしくしているかもしれない。しかしいつかまた、同じようなことを言い出す。なぜなら彼らの動機は神を愛したいからでなく、神を利用して自己実現したいからだ。

 もちろん私たちは終末についてよく考えるべきだし、日ごろから敬虔な生き方をするべきだ。しかし、どれだけ敬虔な生き方ができたか、という視点にスライドしていくとしたら、それはそれで律法主義に偏ることになる(そもそも、私たちには完全に敬虔に生きることなどできない)。
 それより、素直で正直であることが求められていると私は思う。敬虔であろうとして失敗しても、ゴメンナサイと素直に神様に言えるのは良いことだ。少なくとも、終末の日時指定や準備で忙しい、決して自分の主張を曲げない終末論者たちよりは、良いだろうと私は思う。
 

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