黒いワンボックスカーは去って行く

2014年3月2日日曜日

掌編小説

t f B! P L
 一台の車が駐車場を出る。黒塗りのワンボックスカー。亀のようにゆっくり発進し、道路の手前で音もなく停止する。忘れた頃にまた動き出し、のそのそと道路に出る。その後はゆるやかに加速し、長い時間をかけ、やがて小さな点となった。

 道路の半分を占拠して歩く、学生の一団がいる。男ばかりの5人組。でかいカバンを肩から下げているせいか、皆一様に姿勢が悪い。よく響く声で何やら話している。クラスの女子の話らしい。誰それは誰それのことが好きだとか、誰それは最近振られたとか、何とか。時折けたたましい笑い声が上がる。そのせいか、黒いワンボックスカーの接近に気づかなかった。車におだやかにクラクションを鳴らされた。彼らは話に盛り上がりながら、なんとなく道端に寄った。しかしなおも、いわゆる「コイバナ」に夢中で、自分たちの脇を通った車がどんな色かも形かもわからなかった。何台通ったかさえ、知らなかった。

 男は胃薬を噛み砕いてのんだ。コップの水を一気に飲みほした。いつもならここでタバコを吸うのだけれど、今日はそんな気分になれなかった。携帯の画面を確かめた。メールの着信はない。しばしの休息を得て、男は目を閉じた。その時、窓の外を、黒いワンボックスカーが通り過ぎた。

 少年は携帯ゲーム機を睨む。次のプレイは、彼にとって大きな意味を持つ。プレイが成功すればレベルが上がり、レベルが上がれば次なるステージに進めるからだ。失敗してはならない。幸い、母親は別の母親との話に盛り上がっている。あそこのダンナはああだこうだと、飽きもせずによくしゃべっている。しかしおかげで、少年はプレイに集中していられる。ゲームがロード画面に切り替わった。少年はふと、ゲーム機から目を上げた。そのとき視界の端を、黒いワンボックスカーが通った。しかしその映像は、少年の記憶に一切残らなかった。

 女は画面から目を離した。そう言えばもう何時間も作業を続けていた。少し目を休めた方がいいかもしれない。窓の外の青い空をしばし見つめ、それから目を閉じてみた。まぶたの裏に、画面の残像が浮かんでいる。
 少し働き過ぎかもしれない。上司からも休むよう言われたばかりだった。しかし、休んでもやりたいことなどない。友人には何ヶ月も前から旅行に誘われているけれど、ずっと返事を濁してきた。その友人からは「たまには旅行もいいものよ」と言われ続けている。正直言うと面倒だとしか思えないけれど、確かに気分は変わるかもしれない。
 ふと地上に目をやる。黒いワンボックスカーが、会社の前をゆっくり通り過ぎて行く。その先の道路は二股に別れている。女はとっさに思いつく。あの車が左の道を行ったら、旅行に行ってみることにしようか。今すぐ友人に電話して、一番早い出発便を頼んでみようか。でももし右に曲がったら……。その続きを考える間もなく、車は分岐にさしかかった。

 黒いワンボックスカーの出発をじっと見つめる、老姉妹がいる。寄り添い合い、支え合い、じっと車を見ている。昨夜亡くなった姉の遺体を載せ、車は駐車場をゆっくり出て行く。車は去り、姉も去って行く。厳密に言うと姉はすでに去っている。しかしその遺体との別れがすんなりできることにはならない。車が道路に出て、見えなくなっても、姉妹はしばらく、姉の去った方向を見つめていた。(終わり)

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