2014年1月31日金曜日

エコヒイキ牧師の見極め方

「神の牧師」が信徒を不公平に扱うことがある。もちろん人間同士のことだから相性の問題はある。けれど露骨にエコヒイキするのは、牧師である前に大人としての品位が疑われるところだ。しかし一部の牧師は、そのエコヒイキをうまく扱って正当化してしまう。その仕組みをまとめてみたい。

■牧師がエコヒイキするタイプの信徒
 ある牧師らはこのタイプの信徒群を、「御霊にあって組み合わされた人たち」とか表現して、積極的に密接な関係を持とうとする。「神が結び合わせた人たちだから、私は彼らを無下にはできない」「彼らは主にあるパートナーだ」などと言う。

・金持ち(経済的支援を期待できるから)
・権力者(何らかの優遇措置を期待できるから)
・有識者(有益な情報を得られるから)
・優秀な人材(自分のミニストリーに利用できるから)
・従順な人材(いつでもどこでもうまく利用できるから)
・見目麗しい異性(そばに置いておくと気分がいいから)
・注目を集めやすい障害者(彼らを助けることで好印象を得られるから)
・注目を集めやすい病人(彼らを甲斐甲斐しく世話することで好印象を得られるから)
・注目を集めやすい社会的弱者(彼らに救いの手を差し伸べることで、牧師自身が注目されるから)
・その他、関わることで何らかのメリットを牧師にもたらす人物

■牧師が冷遇するタイプの信徒
 ある牧師らはこのタイプの信徒群を「不従順な人々」「荒野のイスラエルのように頑なで扱いづらい人々」「悪霊の影響下にある者ども」などと表現し、積極的に距離を置き、あるいは関係を断とうとする。

・牧師に意見する信徒(正論であれば尚更)
・牧師に反対する信徒
・無能な信徒、やる気のない信徒
・見目麗しくない信徒
・助けてもメリットのない貧乏人、病人、障害者、社会的弱者
・・その他、牧師から見て「かわいくない」信徒(いろいろな意味で)

■結果で見分ける
 もちろん、不公平を公言する牧師はいない。口では「全ての人を公平に扱います。主がそうであるように」などと言う。ではどうやって牧師の不公平さを見抜くかというと、結果的な状況で見るしかない。牧師が何だかんだ御託を並べても、結果的に信徒の扱いが上記のように分かれているとしたら、それはエコヒイキ牧師なのである。動機は結果に現れる。木はその実で判断できる。嫌いな人、苦手な人、扱いづらい人をどう扱うかは、その人間性が最も強く現れるところである。

キマジメくんのクリスチャン生活 第20話

「24時間の礼拝」が始まって一ヶ月が過ぎた。各グループとも始めたばかりで、奏楽の連携が取れなかったり、リーダーの指示がスムースに通じなかったり、礼拝としてイマイチ盛り上がらなかったりなど、まだいろいろ課題を抱えている。けれど大きな混乱はなく、概ね落ち着いた雰囲気で礼拝は継続されていた。

 そんな中、週に一回、全奉仕者が一堂に集まる特別礼拝が持たれたることになった。例によって溝田牧師の提案によるものだ。ここで全員が「同じ御霊の油注ぎ」を受け、それを各グループの礼拝の時に流し出せるように、という趣旨だった。

 この特別集会が毎週、非常に盛り上がった。午後8時から始まるのだけれど、ほぼフルボリュームのまま10時過ぎまで賛美が続く。その後溝田牧師の熱いメッセージが11時過ぎまで続き、それからまた賛美したり祈ったりの時間が始まる。全部終わるのは、午前1時か2時くらいだった。
 それだけ礼拝したら疲れそうなものだけれど、皆興奮しているせいか、最後までフルパワーである。キマジメくんも疲労感を覚えたことはなかった(家に帰るとバタンキューで眠っていたので、実は疲労が蓄積しているのだけれど)。だから終わってもすぐに帰らない信徒が多くいた。目をギンギンにしていつまでも語り合ったり、祈り合ったりしている。

 それも「主の臨在」によるものだと溝田牧師は力説していた。「これが天国の文化だよ。天国の礼拝をしているから、我々は疲れないんだ。天国に、疲れや休憩があると思うかい。答えは否だ。我々はこの地に、天国を引きずりおろしているんだよ。いや、『天国がこの地に侵入している』と言うべきかな」

 キマジメくんはそれに同意できた。この「ダビデの幕屋の回復」が始まってから、何となく御心がわかりやすくなったし、礼拝の中で幸福感を得るようにもなったからだ。いつまでもそうしていたい、どこにも行きたくない、という感覚が強くなっていた。
 また、自分は特別なことをしている、神から密命を受けている、という喜びや使命感も増していた。他の人には理解できない、特別な真理を自分は知っているのだから、この真理の上に堅く立たなければならない。そんな風に思えて、誇らしかった。

 ある特別集会の後、溝田牧師が話しかけてきた。「キマジメくん、ちょっといいかい」
 礼拝の熱気が会堂をまだ満たしている。そこここに信徒らの小グループがあり、話したり、笑ったり、祈ったりしている。溝田牧師は中央の講壇前に、キマジメくんを招いた。
「実はここ数日間、キマジメくんのことがよく示されているんだよ」溝田牧師は親しげな様子で始める。「神様が、キマジメくんに何か語ろうとしておられるようだ」
「はい」
「何か、感じるかい?」
「はい、もっとこの道に進みたい、と最近よく考えさせられています」
「ふむ。それは御心だと私も思うよ。キマジメくん、君は主に献身すべき器だと思うね。どう思う?」
「はい、僕も献身を考えているところです」
「うむ、そうだろう。私も同感だ。これから終末に向けて、ますますこのような礼拝者が求められている。キマジメくん、今は君にとって『時』だと思うよ。どうだ、やってみないかい」
「はい、ぜひそうしたいです」
「ふむ。では主のために全てを投げ出す覚悟が必要だね。君にそれができるかね」
「はい、全てを投げ出す価値があると思います」
「これは素晴らしい。主が喜んでおれられるよ。文字通り、全てを投げ出すのだよ。時間も、経済も、自由も」
「はぁ…。まだ決心するのに少し時間が必要だと思いますが…、でも、すべての売り払って真珠を得た人の話と、同じだと思います。神様には全てを投げ出す以上の価値があると僕は信じています」
「ハレルヤ、キマジメくん。決心は早い方がいいよ。ぜひ私と運命を共にしてくれよ。ね?」
「はい」
 そう返事をした瞬間、キマジメくんと大学とを繋いでいた糸みたいなものが、プツンと音を立てて切れた。キマジメくんにはその音が聞こえたような気がした。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年1月30日木曜日

「神がこんな自分をリーダーにした」のでなく、「ただ自分がリーダーでいたい だけ」

 人格的欠損は誰にでもある。もちろん完璧な人はいない。しかし人がある立場に就こうとする場合、それに必要な人格的基準というのは確かにある。そしてその基準を満たすと他者から評価されなければ、それに就くことはできない。

 例えば「嘘つき」で「サボり魔」だと社内で広く評判になっている人物が、主任や課長に昇進するということはまず間違いなくない。新約聖書の第一テモテも、「監督」や「執事」の職に就くにはこれこれの基準を満たしていなければダメだと言っている。だからこの原則に基づくなら、今日の教会の牧師とか役員とか執事とかリーダーとか呼ばれる人物に、おかしな人間はいないということになる。

 しかし残念なことに上記の聖書箇所は、「誰が」「どのようにして」その人格基準を判定するか、という方法が書かれていない。そして今日のキリスト教界において、リーダー的立場に就く人間の人格を判定するルールブックみたいなものは、おそらく存在していない。もしかしたら個々の教会や団体で独自の決め事はあるかもしれないけれど、多くの教会は「主任牧師」の一存で決まるか、あるいは審査ナシの不戦勝みたいな形で決まる。

 結果、「この人は人格的にどうなんだ」と思わずにいられない人物がリーダーをやっている教会が生まれる。許容範囲をはるかに超えた人格的欠損が見られるのに、リーダーとして教会を支配し続け、信徒も誰も何も言わない(言えない)。

 そういうリーダーが、自身の人格的欠損を誤魔化せないと知ってか、こんなことを言ったりする。
「自分は人格的にリーダーに向いていないだろう。しかし、神様がこんな私をリーダーとして立てたんだから仕方がない

 これを聞いて、謙遜だなとか、じゃあ仕方ないとか思うだろうか。私は全然そう思わない。その言い分が、神が人間に自由意思を与えたことを否定しているからだ。まるで神様が一方的なお方で、人の意志に関係なく仕事に就かせ、無理矢理働かせているみたいに聞こえる。自分がリーダーであることを神のせいにし、だから人格的に不十分でも仕方がない、失敗しても仕方がない、何か問題が起こっても神の責任だ、と言っているだけだ。本当は自分がリーダーでいたいだけで、誰かの下になんか付きたくないと思っていて、しかし自分の人格には問題があると薄々わかっている。それで、神をいいように利用しているのだ。

 本当に人格に問題があるなら、潔くリーダーを降りればいい。誰も止めはしない。止めているのは自分のプライドや野望だけだ。そして本当に潔く降りられるなら、むしろ人格的問題はさほど重くないと言える。

2014年1月29日水曜日

見える「能力」と見えない「人格」

「能力」と「人格」の二つの側面で、牧師を評価してみる。
 すると「能力」はある程度、判断しやすいことがわかる。その牧師のやることを見れば、できるできない、上手下手がわかるからだ。しかし「人格」となるとそうもいかない。人格(品性とも言える)は短期的にはどうにでも取り繕い、隠すことができるからだ。

 ある牧師の品性を正しく判断するには、ある程度の期間が必要になる。そして教会外の姿も見なければならない。普段品行方正な牧師が、車の速度オーバーで止められただけで、警察にあらん限りの暴言を吐くことがある。普段きれいごとばかり囁く牧師が、不動産業者と交渉する際、ヤクザと見紛うほど脅しつけることがある。いつも笑顔の優しげな牧師が、いざという時何も言えず、信徒を見捨てることがある。

 自己正当化する牧師は、ストレス下にある時や緊急時の醜い反応は「あくまで本来の自分ではない」とか「あれは義憤だ」とか言う。しかしそれは違う。非常時にこそ、その人物の本性が現れる。そしてそれだけは取り繕うことができない。

「教会」という集団における牧師の存在を考えると、「能力」と「人格」、どちらが大事かというと私は人格だと思う。能力は他人がいくらでも補えるけれど、人格はそうはいかないからだ。そして牧師の人格を扱える信徒など、基本的に存在しないからだ。

『エンダーのゲーム』鑑賞後

『エンダーのゲーム』を劇場鑑賞。原作未読。前情報ほどんどなし。後半にネタバレするので注意

・あらすじ
 50年前、地球は「フォーミック」と呼ばれる昆虫型生命体の侵攻を受け、壊滅の危機に瀕した。しかし戦闘機パイロット、メイザー・ラッカムの英雄的犠牲により敵を撃退、地球は辛くも守られた。
 それから50年、人類はフォーミックの第二次侵攻に備え、世界中から選抜した優秀な少年兵たちに、「バトルスクール」で厳しい訓練を施していた。
 ウィッギン家は長男ピーター、長女ヴァレンタインともスクールに送り出したが、どちらも能力はありながら途中で落第となっていた。残る次男のエンダーは兄姉をも凌ぐ才能に恵まれ、かつ兄姉の落第理由であった暴力傾向などからバランスが取れた人格を有していた。
 艦隊のグラッフ大佐は早くからエンダーの能力に注目し、バトルスクールにスカウトする。エンダーはスクールで見る見るうちに頭角を現し、仲間の尊敬を集め、トップの成績を残す。
 エンダーは惑星エロスの前線基地にある「コマンドスクール」へ異動となる。そこでは実際のフォーミックの母星を観測しており、敵が軍備を増強しているのを確認できた。それを基に再現されたシュミレーション映像による、実戦さながらの訓練でも、エンダーは勝利を重ねる。
 そしてエンダーはいよいよ卒業試験を迎える。このシュミレーションに勝てば、エンダーは司令官として実戦に臨むことになる。しかし、自由時間にやっていた「マインドゲーム」でフォーミックの「女王」と対面していたエンダーは、「フォーミックは自分に何かを伝えようとしているのではないか」と疑問を抱いていた。

・爽快感の連続、少年版『半沢直樹』
 エンダーは見た目にはキャシャでひ弱な少年で、行く先々でいじめを受けている。しかし訓練を通して段違いの能力を発揮し、周囲をアッと言わせ続ける。その逆転劇とどんどん昇格していく様が、実に爽快である。私は『半沢直樹』を思い出した。そのエンダーを見て喜ぶグラッフ大佐(ハリソン・フォード)もまた面白い。「ほら、私が言った通りだろ!?」とでも言わんばかりの喜びようである。

・SF戦争ものというより、少年の成長記
 本作の大部分は、厳密に言うとスクールの中の出来事である。ガキ大将にいじめられ、助けてくれる女の子がいて、ちょっとずつ仲間ができて、訓練の中でガキ大将らを倒していく。その繰り返しの中で、エンダーが成長していく。物語の中心はそこにあって、バトルスクールでもコマンドスクールでも、エンダーの戦いは「ゲーム」であって実戦ではない。その意味で、この映画に本物の戦争シーンはない。しいて挙げれば、冒頭の50年前の戦争シーンくらいである。

映画の予告篇はこちら。

・ネタバレ(見たくない人は注意)

・実はメイザー・ラッカムは生きていた。50年前の戦闘時、彼はサーモグラフを通して敵母艦内のフォーミックの女王の位置を知り、自機をぶつけたのだった。衝突寸前に、彼自身は脱出していた。
・フォーミックに第二次地球侵攻の計画はなかった。人類に敗北したフォーミックは、地球からの逆襲を恐れ、自衛のために軍備を増強していただけだった(だから50年間何の動きもなかった)。
・それに対して地球艦隊側は、何としても先制攻撃をしかけ、「未来の戦争」を防ぎたかった。
・エンダーの卒業試験は実は「実戦」で、全て実際に艦隊を動かし、実際にフォーミックの母星を攻撃・壊滅させたのだった。その際、艦隊の最終兵器である「リトル・ドクター」を守るため、他の全ての艦隊を見殺しにし、全ての戦闘機を盾にしなければならなかった。実戦でそこまで非情な選択がエンダーにできるかどうか、艦隊側はわからなかったので、あくまで「シュミレーション」という名目でコトを進めさせたのだった(と思う)。
・勝利の後に真相を知ったエンダーは激怒するも、惑星エロスにフォーミックの女王が残っていることを知る。女王が生み残した新たな女王の卵を携え、エンダーはフォーミックのために、新たな星を探す旅に出かける。

牧師の指示はすべて神の御心だから、多少理不尽でも仕方がない…のか?

 牧師の指示により、午前0時過ぎに遠出する。行った先では、早朝からスケジュールがビッシリ、明日の夜まで休めない。そんな毎日が続く「ミッショントリップ」とか「アウトリーチ」とか「宣教旅行」とかが、あとからあとから企画されていく。一つが終わっても、連れ出される信徒は休む間もなく、次の準備をしなければならない。
 なぜそこまでしなければならないのか?
 牧師いわく「主が求めておられるから。イエス様の弟子たちがどれほど忙しかったか、考えてみさない」

 牧師の指示により、礼拝賛美のリハーサルが行われる。朝から夜遅くまで、一日中、会堂にこもって牧師の叱責、罵声、怒号を聞かされる。同じフレーズを何度も何度も繰り返させられる。一人反省会をさせられる。牧師が納得するまでリハーサルは終わらない。
 なぜそこまでしなければならないのか?
 牧師いわく「神様に最高のものを捧げるべきだから。天地万物の王に向かって、中途半端なものを捧げてはいけない」

 牧師の指示により、やりたくないこと、得意でないこと、嫌いなことをさせられる。案の定、失敗して惨めなことになる。それを人前で一番笑いの種にするのは、当の牧師である。
 なぜそこまでしなければならないのか?
 牧師いわく「主への従順は完全でなければならないから。従わないことは不信仰であり、神から遠く離れることになる。ルシファーの顛末を見なさい」

 牧師の指示により、若い女性ばかりが牧師の「研修旅行」に同伴させられる。なぜか出発は深夜。周囲はその研修の予定も必要性もよくわかっていない。が、漠然と「主の働きなんだ」と思い込んでいる。
 牧師いわく「これこれの仕事には彼女の能力が絶対必要だから。そしてこの仕事は、神様が今もっとも求めておられることだから、仕方がない

 上記のいずれのケースにおいても、信徒、牧師、神様の誰かがウソをついている。いったい誰だろうか。

2014年1月27日月曜日

根本的に方向性を間違えている「終末予想ゲーム」

 イスラエルのシャロン首相の死去に伴い、終末が迫っていると主張するクリスチャンらがいる。同首相の死が終末の合図になる、とかいう「預言」があったらしい。その根拠はまったく確認できないけれど。

 彼らは「終末がいつかは誰も知らない」という新約聖書の言葉に対して、「イッサカルは時を悟ることができる部族」などの旧約聖書の言葉を持ち出して、「神は親しい者にはそれが起こる前に知らされる」と主張する(そういえば、その手のクリスチャンらはやたら旧約聖書を好んで引用する)。

 また彼らが根拠とするのは、アダムの誕生から現在までが6000年くらいで、やがてくる「1000年王国」を足せばピッタリ7000年で、キリがいい、「7」は完全数でもあるからなお都合がいい、だからやっぱり今は終末なんだ、というようなものだ(実際のユダヤ歴は西暦2014年1月現在で5774年だから、彼らの計算と200年以上の誤差があるけれど)。
 くわえて、天地創造が7日間だったことから、「千年は一日のよう」という聖書の言葉を引用し、一日千年で合計七千年、だからこの世界はやっぱり七千年なんだ、と持論を補強(?)している。
 さらに星の運行にまで話は言及し、何百年か何千年かに一度しか起こらない天体現象が近々起こることになっていて、その日がユダヤの何かの祭りの日付と合致する、だからやっぱり終末は近いんだ、と付け足す。

 けれどその計算も発想も、単純すぎる。星の運行とユダヤの祭りの関連に至っては論理的飛躍でしかない。しかもそういうのは人間の頭で容易に想像できるレベルだ。それを「神様から特別に教えられた真理」とするのは冒涜に近い気がする。

 そういう人間的単純発想を駆使するなら、終末に関しては何とでも言える。都合のいい聖書の言葉を引用し、都合のいい事象を利用し、都合のいいタイミングを使えばいい。

 しかしこういう「終末予想ゲーム」は、根本的に方向性を間違えている。私たちに必要なのは終末がいつかを知ることでなく、それに向けてどう生きるかだからだ。終末について尋ねられたイエス・キリストの答えも、そういうことを言っているのだと思う。「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ24章4節・新改訳)

2014年1月26日日曜日

聖書を軽く無視する「断食アピール」

「断食」していることをアピールするクリスチャンがいる。「御心を知りたいから」とか、「ダディ(神様のこと)に示されたから」とか、理由はいろいろある。結果、「1週間の断食で、御心がビンビン入ってくるようになりました。おすすめです」とか言う。

 それはそれで結構なことだ。「ビンビン入ってきた御心」が何か良い結果につながるなら文句はない。ぜひ「霊的」な事柄でなく、現実世界の良い変化をお聞きしたいものだ。

 けれどそういう「断食アピール」に対する、基本的な疑問がある。マタイ6章16~18節(新改訳)は、要約するとこう言っている。「断食している時はやつれた様子を見せないで、人に見られないようにしなさい。隠れたところで見ておられる、神様に見られるためです」
 つまり断食は内緒でこっそり行うものだと言っているのだが、これは「断食アピール」と相反している。はたして彼らはどう反論するのだろうか。私が思うに、これは聖書が間違っているのか、彼らが間違っているのか、どちらかしかないのだけれど。

 彼らは神様の御心を求め、その御心に従っているつもりで、聖書もよく学んでいるつもりだろう。けれどその実、聖書が示す極めてシンプルな命令が、まったく目に入っていない。それは悲劇なことだけれど、新約聖書の時代にもそういう輩が沢山いた。彼らは律法学者とかパリサイ人とか、偽善者とか犬とか呼ばれていた。だから現代にいても不思議ではない。

「断食アピール」クリスチャンたちは、律法学者やパリサイ人たちのことを批判的に言う。御心がわかっていない、偽善者たちだと責める。あるいは憐れむ。しかしそういう自分たちがどういう存在であるのか、吟味するつもりはないようだ。

2014年1月25日土曜日

壇上でひざまずく、「謙遜」というパフォーマンス

 大きな集会で、ゲストスピーカーとかゲスト講師とか呼ばれる「リバイバリスト」たちが、壇上でひざまずいて祈る場面がある。突然悔い改めを促されたとか、ひざまずかずにいられなかったとか、あまりの「臨在」に立っていられなかったとか、理由はいろいろだ。

 そういうのを見て感動した参加者たちが「やはりあの講師は素晴らしい神の器だ」とか評するので、かの「リバイバリスト」たちは、次もどこかに呼ばれることになる。そしてどこかの壇上でも同じようにひざまずき、自身の謙遜さをアピールすることになる。

 壇上で突然ひざまずいて祈らなければならなくなるという状況は、なくはないだろう。しかし衆人環視であることや、講師としての責任を考慮するならば、それは控えるべきだ。なぜなら聖書は明確に、「人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのは偽善者だ」(マタイ6章5節・新改訳)と言っているからだ。むしろ、祈るなら誰もいないところで祈れ、と言っている。
 だから数百人数千人が注目する壇上でわざわざひざまずき、涙ながらに天を仰いで祈るのは、私にはパフォーマンス目当ての偽善にしか見えない。それもかなり滑稽な偽善に。

 しかしそういう偽善を見て感動してしまうクリスチャンが多い。そして偽善者らを称賛する。しかし聖書はそういう偽善者についても明確に言っている。「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(マタイ6章5節・新改訳)

2014年1月24日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第19話

 教会では、「24時間の礼拝」の準備が進みつつあった。
 溝田牧師は口を開けばその話で、一刻も早く始めたいらしい。スタッフミーティングではやれホームページを作ろうとか、ポスターを貼りだそうとか、オリジナルTシャツを作ろうとか、楽器も音響設備も全部入れ替えようとか、イスラエル旅行に行こうとか、そんな話ばかり。礼拝奉仕者向けの勉強会も何度も開かれ、キマジメくんは律儀に全部出席していた。

 学ぶ中で、「24時間の礼拝」について理解が深まった。これは「ダビデの幕屋の回復」という世界的に広まっている働きだった。文字通り、イスラエルのダビデ王が幕屋で行っていた24時間365日の礼拝を、現代によみがえらせようというのが趣旨だった。そしてこの働きは、終末が近づいた今日、キリストの再臨に備えるために「主が強く願っておられる」ことでもある。と、教えられた。

 具体的には、教会員が全員揃って24時間連続で礼拝をする訳ではない。4~5人のグループをできるだけ多く作り、1つのグループに週1日、2時間枠の礼拝奉仕を割り当てる。そして一つのグループの枠が終わると、次の枠のグループと交替する。それを延々繰り返し、24時間365日の礼拝を実現する、という訳だ。
 だからグループが多くないと24時間に達しない。最終的には80以上のグループ、ざっと見積もっても400人は必要になる。しかし今のところ、ここにそれだけの教会員はいない(溝田牧師は、必要な人数は必ず集まると豪語していた)。

 礼拝の仕方も、今までにないものだった。
 基本的に賛美の歌を繰り返すのだけれど、時に奏楽だけになったり、奏楽も止めたり、誰かが祈ったり、また賛美したり、というふうに変化していく。そしてそれらの変化は、「御霊の示し」のままに行われていく。今この賛美をすべきだ、今これこれについて祈るべきだ、今こう宣言すべきだ、という具合に。

 キマジメくんは最初のうち、この「御霊の示し」について自信がなかった。礼拝中、いろいろな思いが浮かんでくるけれど、それが果たして神様からのものなのか、自分の勝手な願望なのか、あるいは悪魔からのものなのか、どうにも判別できなかったからだ。何人かの先輩にそのことを相談したけれど、皆が共通して言うのはこんなことだった。
「それが『御霊の思い』であれば、そうだとはっきりわかる。御霊の思いとはそういうものだ。そして初めのうちは大胆に信じてみることが大切だ。せっかく『御霊の思い』が与えられたのに、恐れてしまって信じられないということがあるから」
 わかったようなわからないような、という感じだったけれど、とにかく実践してみるしかなかった。

 そんなこんなで「ダビデの幕屋の回復」が始まっていき、キマジメくんはますます学業に集中できなくなった。彼の割り当てられた枠が、毎週月曜日の午前0時から2時までだったからだ。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年1月23日木曜日

悪いのは独裁的牧師か、教えそのものか

 独裁的牧師の、聖書を巧みに利用した信徒虐待について私はずっと書いてきた。記事のほとんどは、実際に私が体験し、目にし、耳にしてきたことだ。キリスト教信仰、中でも真に純粋な聖書信仰、堕落しきった多くの世俗的教会が失った「金の信仰」を私たちは持っている、と巧みに信じ込まされてきた。しかし実は、牧師にいいように使われているだけの「信仰ゴッコ」でしかなかった。

 そういう詐欺的宗教活動は許し難いのは間違いない。けれど同時に思うのは、そういう牧師自身がどこまでそれを意識的にしていたか、ということだ。初めから信徒らを騙す気でいたのか、あるいはどこかで道を踏み外してしまったのか。実は私にはよくわからない。

 ある牧師の初めの姿で言えば、本当に純粋に神様を愛し、人々に仕えているように見えた。詐欺であそこまでできるとはとても思えない。スパイが何年、あるいは何十年もかけて敵国内部に深く潜入していくという話を聞くけれど、それくらいの覚悟があったのだろうか。
 確実なことは言えないけれど、どんな牧師も初めは純粋に真実に神様に仕えようとしていた、と私は思いたい。

 ではどこかで道を誤り、信仰を利用した自己実現に走り出したと仮定する。その場合、いったい何が問題だったのだろうか。何が牧師を正しい道から引きずり下ろしたのだろうか。私は「教え」に問題があるのではないかと思う。

 もちろん、基本的な福音理解に問題があったという意味ではない。イエス・キリストの十字架について違ったことを言うのであれば、その時点で異端であろう。問題はそれに付随する「新しい」聖書理解・聖書解釈にある。特に「ラターレイン」運動とか「第三の波」運動に見られるような体験主義、感動主義、拝金主義、権威主義の詰め合わせは、牧師への権力・金銭の一点集中をもたらす。牧師は何でもできる。誰も反対しない。誰であろうと何であろうと、好きな時に好きなように使える。その状況がもたらす誘惑は、人には大きすぎるのではないだろうか。

 独裁牧師を擁護するつもりはまったくない。何であれ自分の欲に溺れ、人々を虐待し続けたのは間違いない。けれど「教え」そのものに根本的な欠陥があり、人を大きな誘惑へと引き込むのだとしたら、そういう牧師も犠牲者の一人と言えるかもしれない。

2014年1月21日火曜日

いっこうに功を奏さない「主の戦略」

 ある教会のミーティングの場。「牧師先生」を、大勢のスタッフや信徒たちが囲んでいる。
「これは主の戦略だ」
 牧師は自信満々に、あるいは使命に燃えた様子でそう語る。ソファにふんぞりかえり、組んだ足の先でテーブルの端をコンコン蹴りながら。
 誰も何も言わず、「牧師先生」の次の言葉を待っている。
「私が祈っていると、」牧師は怖い顔のまま続ける。「主が幻の中で、私にはっきりと示された。それは強烈な印象だった。『暗闇の中で苦しんでいる人々を助け出せ』と。そして同時に、その為の戦略が私に示された。今からそれを語る。だからこれは、天の御国の戦略会議だ」
 皆が黙っていると、牧師は突然怒りだす。「なぜ返事がない? アーメンじゃないのか? 主の会議に連なる者に、そんな態度がふさわしいと思うか!」
 するとあちこちから「アーメン」と、恐る恐る声が上がる。
 牧師は威嚇するように見回し、また話の続きに戻る。

 という訳で「主の戦略」とやらが語られる。あるときは「若者を勝ち取れ」、あるときは「この地域を勝ち取れ」、またあるときは「文化を勝ち取れ」と。そしてそういう方向性に合わせて、「プレイヤーウォーク」や「断食」や「長時間の祈り」などの方法論が取り入れられ、最終的には何かのイベントが開催されることになる。

 そのイベントに向けた準備が、教会全体で始まる。その中心にいるのはいつも「牧師先生」で、これはダメだ、あれはダメだ、こうしなければならない、と細かく指示を出す。そしてそれらは全て、「私個人の願いじゃない、主の願いだ。だから全ての不都合を捧げてそれに従わなければならない」という。
 それに沿わない者、うまくできない者は「主にあって」罵倒され、悔い改めさせられる。周りの者はそれを見て、「逆らってはいけない、失敗してはいけない」と思い知らされる。
 それに耐えられる者は、賞賛されると同時に、更なる奉仕を任せられる。そしていつのまにか、出口のない「奉仕迷宮」に迷い込んでいく。

 そうして一つのイベントが終わると、休む間もなく、また「主の戦略会議」が開かれ、次のイベントに向けた準備が始まっていく。そういうことが何年も何十年も続いていく教会がある。

 そういう「主の戦略」が功を奏し、何かが確実に改善し、拡大し、成長し、良くなっていくのなら、それらの努力にも意味はあると言えるかもしれない。しかしそれらの効果はいつも限定的だったり、短期的だったり、何かを犠牲にすることだったりする。教会に人が増えても、同じくらい人が出て行く。何かの設備が整っても、その背後で多くの信徒が犠牲になっている。

 そういうのが「主の戦略」であり「祝福」であるなら、神の国とはずいぶん貧しいところだと言わざるを得ない。
 そういう牧師は伝家の宝刀として「霊の次元で大きく変化した。それは必ず現実になる」などと言うが、霊的にどうなろうと空腹は満たされないし、現実化するのを待っていたら死んでしまう。

「牧師先生」がソファにふんぞりかえって「これは主の戦略だ」と主張している時、当の主ご自身がそれを聞いてどう思われているのか、是非とも聞いてみたいものだ。

2014年1月20日月曜日

「笑いの霊」はどこへ行ったのか

 一昔前、日本のプロテスタント界隈で、「笑いの霊」というのが流行った。
 祈りや賛美といった礼拝行為の最中に、大勢で笑い出して止まらなくなる、という現象だ。何かの集会でその現場を見たことがある。年輩の牧師たちが腹を抱えてゲラゲラ笑いながら、「これが主の喜びってヤツだよ~」「天国は幼子たちのものってのはこのことだよ~」などと興奮しながら言っていたのを覚えている。笑い過ぎて顔が真っ赤で、それでも止められない様子だった。居酒屋で大騒ぎする中高年とあまり変わらない雰囲気だったような気がする。

「笑いの霊」の話の出所がどこの誰だったか覚えていないけれど、「聖霊の満たしの一つの現れ」とか「聖霊に酔った状態の一つ」とかいう説明だったと思う。その霊に満たされると、主にある喜びで笑い出さずにいられなくなり、いわゆる「天国の宴会」を体験する、という。あそこまで笑い続けたら、苦しくて逆に地獄ではないかと私などは思うのだけれど。
 かくいう私は、その現場にいても『笑いの霊』に満たされることはなかった。

 その現象を冷静に思い出してみると、必ずしもそこにいる全員が笑うという訳ではなかった。また、笑う人たちも全員同時という訳ではなかった。一人二人が笑い出し、それに釣られる形で、笑いが広がっていく感じだった。
 それは、大笑いしていた年輩の牧師らに言わせると「信仰の違い」「純粋さの違い」「心をどれだけオープンにできるかの違い」とかいう話なのかもしれない。
 けれど同時に言えるのは、いわゆる集団妄想、集団ヒステリー(パニック)、感情伝搬という類の群集心理でしかないかもしれない、ということだ。
「信仰」を持ち出せば科学的根拠などどうでもいい、という話にはならないだろう。むしろ聖書の事象が科学的に証明されることに、昨今は注目が集まっているはずだ。

 もう一つ、その「笑いの霊」の問題点は、それが一時的なブームでしかなかったということだ。現在、礼拝中にバカ笑いが始まって止まらないなんて話は聞かない。当時大笑いしていた人たちが、今に至るまで礼拝の度に大笑いしている、なんてこともない。それが本当に「聖霊の満たしの一つ」であり「天国の再現」であるなら、今でも喜んで笑っているはずだろうに、「笑いの霊」はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。

2014年1月19日日曜日

「神の導き」に惑わされ、神の導きから外れてしまう悲しい人たち

「神の導きらしきもの」に振り回されるクリスチャンがいる。
 彼らは多くの場合、「神の導き」について誤って教えられている。神は人を導く方だから、何かを選択する時は必ず神の指示を仰がねばならない、というふうに。だから何でもかんでも神からのサインを求めなければ気が済まない。そしていくら待っても与えられないとなれば、聖書や偶然を利用して「語られたんだ」と自分自身に言い聞かせる。

 その根本的な問題は、何一つ自分で判断しないという点にある。いつも神からの指示に従うだけだ。そしてそれは自由意思をなくしたロボット、指示がなければ何もできないコンピューターと大差ない。アダムとエバに選択の自由を与えた神は、そんなことを願っておられない。

 その背景にあるのは、一つには自分で判断できない、判断したくないという自信のなさだ。だから何かに頼りたくなる。そして考えるプロセスを省いて答えだけをポンと得られる、「神の御心」を求めることになる。
 もう一つは、選択に失敗したくないという利己主義がある。「繁栄の神学」的に言うと祝福を逃したくないという、要するに物質主義あるいは拝金主義だ。

 彼らは「神の御心」を求めているつもりなのだろうけれど、自分たちが求めているものについて本質的に誤解している。神の御心は人にあれこれ細かい指示を出すことより、どう判断するべきかを教えることにあるからだ。「神の導き」とはそういうものだ。神は指針を与える存在であって、人を自在に操る人形師ではない。

 それが単なる誤解で済むならまだいいけれど、害を及ぼすことがある。
「神の導き」を求めるクリスチャンが、最終的に「語られ体験」を求めるのは牧師や宣教師といったリーダーたちだ。そういうリーダーたちに良識や正しい判断力があればいいけれど、「神はこう言われる」ということで自分勝手な願望を振りかざさないと、どうしてわかるだろうか。
 悪くすると、「神の御心」だと信じて従った結果、単に人の欲望に付き合わされただけで、神とも信仰とも何の関係もないことをしていた、ということになる。それこそ、神が一番願っていない悲しい事態である。

 結論。「神の導きらしきもの」に惑わされてはいけない。そして惑わされていない自信のある人ほど、その自信が本物かどうか検討してみる必要がある。

2014年1月18日土曜日

腹を割って話せなければ真実な関係ではない、という偽り

信徒どうしの人間関係に、深く関わろうとする牧師がいる。
たとえば不仲な信徒たちの仲介を図り、衝突した信徒たちを和解させようとする。そしてクリスチャンは神の前にこうあるべきだ、人間関係はこうあるべきだ、というようなことを指導する。

その指導の是非を問おうとしたら、どこまでが牧師の役割なのか、あるいは何が教会の目的なのか、というような話になる。そしてそれが牧師の好意になるのか余計なお世話になるのかは、牧師も教会も状況も多様だから一括りにできない。けれど一つはっきり言えるのは、その手の「牧師の介入」が過剰になっているケースがあるということだ。

たとえば信徒Aと信徒Bがいて、2人はべつに不仲ではないけれど、どちらかと言うと相性は良くない、というような関係はどこにでもあるだろう。両者とも何となくそのことがわかっているから、互いにあえて近づこうとしないし、教会で会っても挨拶するくらいだ。2人は意識してそういう一定の距離を置いた関係を保っているのだけれど、介入過剰な牧師はそれを黙っていない。「それは表面的な関係だ」「真実な関係ではない」「キリストの愛で愛し合っていない」というような理由をつけて、両者を呼んで「腹を割った話」をさせようとする。

しかし腹を割れと言われても、本人たちにはそもそも割るべき腹がない。互いに関心がなかったのだから当然だ。けれど牧師に「もっと積極的に愛し合い、関わり合うことがキリストの愛の命令だ」と言われたら、確かに自分たちの姿はそれに達していない。結果、「もっと積極的に関わり合う」関係になろうとして、いろいろ話したくないことまで話させられ、無理をすることになる。

「互いに愛し合う」というのは確かにキリストの命令だけれど、それは全ての人間と良好な関係を持てという意味ではないだろう。よっぽどの成人君主ならそれも可能かもしれないけれど、普通に考えたら無理だからだ。なのに全ての人間関係を「良い」か「悪い」かの二元論に落とし込み、前者でなければクリスチャンとして失格だ、とするのは横暴すぎるのではないか。

人間、どうしたって相性の悪い人間というのはいる。そしてそれは相手が悪いか自分が悪いかという種類の話ではない。どちらも悪くない。単に自分とは違う、というだけのことだ。

そういう違いがあるが故、相手と一定の距離を置こうとすることは、人間関係を壊すことにはならないだろう。かえって相手を尊重し、共存する道を選んだということになると思う。
むしろ、介入過剰な牧師の指導に従って、自分にも相手にも無理を強いて「良好な」人間関係を保とうとすることの方が、よっぽど「表面的」で、「真実でない」関係ではないだろうかと私は思う。

2014年1月17日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第18話

 ある奉仕の打ち合わせで、キマジメくんはノンビリ兄弟の部屋を初めて訪れた。
 ノンビリ兄弟は独り身で、住まいはワンルームマンション。男の一人暮らしにしては小奇麗にしている、というのが第一印象だった。ゴミなど落ちておらず、脱ぎっぱなしの服もない。大学の同級生のほとんどは、足の踏み場もないほど部屋を汚している。だから奇麗すぎて何だか居心地が悪かった。
「先に食事にしよう」とノンビリ兄弟は提案すると、キマジメくんの返事を待たず、キッチンで何やら準備をしだした。

 ノンビリ兄弟の部屋で最も目を引いたのは、本棚だった。リビングの壁一面に何列も棚が据えつけられ、ずらりと本が並んでいる。彼が読書家とは知らなかったし、そんなイメージもなかったので、キマジメくんはまた驚かされた。
 本は様々なジャンルが揃っていた。ビジネス書やら啓発書やら、文学小説やらエッセイ集やら、まるでこじんまりした書店のようだった。その中にキマジメくんを引き付ける一冊があった。『学歴の価値を問う』という、新書サイズの本。手に取って何気なく読みだすと、いつの間にか引き込まれていた。

「一度買った本は捨てられなくてね」
 どれくらい時間がたったかわからなかったけれど、ノンビリ兄弟が続々と食事を運んできていた。キマジメくんは我に返ると、本を置いて手伝った。「確かにすごい量ですね」
「古いのもいっぱいあるけどね」
 ノンビリ兄弟の手料理を食べた後(その美味しさにまた驚かされた)、とりとめない雑談が続いた。ノンビリ兄弟は珍しく饒舌だった。自分の過去、特に大学時代から今に至るまでを丁寧に話してくれた。

 
 ノンビリ兄弟はK県出身で、父親は中小企業を経営する社長だった。やり手の父親に似ず、ノンビリ兄弟は昔から穏やかでおおらかな性格だった。(本人に言わせると)何をやっても平均かそれ以下で、何か一事に励むということもなかった。それでも高校までは特に問題なくやってこれた。けれど、大学受験に失敗して二浪し、やっと入った大学も二度留年、結局中退してしまった。
 中退する少し前に、教会に通うようになっていた。教会に行くようになったキッカケは、なんと溝田牧師だった。その教会が伝道集会のゲストとして溝田牧師を招いており、ノンビリ兄弟はたまたまそれに誘われていたのだった。
「いやあ、衝撃的な出会いだったよ」
 ノンビリ兄弟は当時を振り返って言う。「溝田先生は当時から霊的に力強くてね、僕なんか、それまでの歩みを全部言い当てられちゃったんだよ。それと、それからどう歩むべきかもね」
「どういう感じだったんですか?」
「うん、神様が僕を召してるって。それまでの僕の人生は、全部神様に出会う為だったし、その神様に仕える為だったんだって。だから救われてすぐ、僕は献身について考え出したよ」
「すぐに献身したんですか?」
「いや、やっぱり準備が必要だったからね、まずはこっちに出てきて就職して、働きながら、溝田牧師から訓練を受けたよ。ま、今もそれが続いているんだけどね。キマジメくんも、献身を考えているのかい?」
「あ、はい。まあ、終末が近いってことなので…」
「終末か。確かにそうみたいだね。で、具体的には何か考えているのかい?」
「はい、まだ決めてませんけど、大学を中退しようかなと考えてます。もう時間もあまりないみたいですし」
 ノンビリ兄弟は持っていた湯呑に目を落とす。「うん、確かにそれも一つの道だよね」
「ノンビリ兄弟はどう思いますか?」
「まあ僕は大学中退した身だからね。大学がどんな感じかはわかるよ。あんまり真面目にやる人いないでしょう? 意味ないなって感じるよね。そうそう、キマジメくん知ってたかい、あの有名なゴリエモンも、パソコンで有名なビル・ゲートも大学中退したって。一般の人でも大学中退であそこまでやれるなら、神の子である僕らなら、もっとやれるって思わないかい?」

 キマジメくんにとって大いに励まされる言葉だった。その後も奉仕の打ち合わせはそっちのけで、2人は「献身」についてああだこうだと話し続けた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年1月16日木曜日

知らなければ知らないほど、ものを信じられる。「無知を知る」ことについて。

 アイルランド出身の有名バンド”U2”の楽曲に"Last night on earth"というのがある。曲そのものは聴いたことがないけれど、非常に印象的な歌詞がある。

"The less you know, the more you believe."
(知らなければ知らないほど、ものを信じられる)

・無知を知る
 その歌詞の意味は「無知な人ほどものを信じやすい」という意味だろうけれど、私はかなり同意できる。クリスチャンとして見当違いな「信仰モドキ」にドップリ浸かっていた頃、私は「教会のカルト化」なんて全然知らなかったし、自分の行いが正しいかどうかなんて考えもしなかった。つまり、自分がものを知らないということを知らなかった。だから今思うと荒唐無稽なあれこれを、本気で信じられたのだと思う。
 じゃあ今は知っているのかというと、やはり知らねばならないことは沢山ある、ということだけは知っているのではないかと思う。
 この「無知を知る」ことを阻む理由は、大きく2つあると思う。

①情報統制・思想教育
 これは社会主義国家が国民をコントロールする手法である。外部の情報を遮断し、自分たちに都合のいい情報だけを与え、徹底的にある思想だけに染める。あるいは外部の情報を遮断できない場合は、それらが全部巧妙なウソであり、信じてはいけないと教え込む。そうやってコントロールされた人間は、自ら外部からの情報を拒絶するようになる。結果、自分の無知を知ることができなくなる。

②思考停止
 これは①の結果であるかもしれない。自ら考えたり判断したりすることを厭い、他人任せにする。いろいろな情報、いろいろな視点があることをよく吟味せず、あるいは無視し、明確な理由もなく、ある一方だけを信じる。自分の無知を知る機会はあるかもしれないが、そうはしない。知らないが故、信じられる。

・もう一つの問題、無知を否定する
 しかし教会員時代、私は自分が無知であると思っていなかった。むしろその逆で、聖書やいろいろな文献をよく調べていたから、人並み以上にものを知っている方だと思っていた。教会ではよく「目覚めよ」とか言われていたから、「これだけ『真理』を知っている自分は目覚めている、外部の人間は目覚めていない」と本気で思っていた。

 けれどそれは知識量、有する情報量の話であって、「無知を知る」とは種類の違う知識である。「無知を知る」とは、知識について論じるよりも以前の話であろう。そしてそれは「謙遜」とか「へりくだり」とか、そういう人格的な領域の話であろう。
 そういう人格的な「欠け」があるとしたら、たとえどんなに知識があっても『真理』を知っていても、何の意味もないと私は思う。

・結論
 聖書知識と「無知を知る」ことは関係がない。そして「無知を知る」人格でないなら、どんな知識も意味がない。

2014年1月15日水曜日

キリスト教的「証」なのか、単なる「リア充自慢」なのか、よくわからないこと がある

 キリスト教プロテスタントに特有かどうか知らないけれど、「証」(アカシ)という行為がある。
 簡単に言うと、「神様から頂いた恵みを人に伝える」ことだと思う。具体的には、人前で話したり、文章にしたりする。クリスチャンには馴染みの行為であろう。

 私は人の「証」を聞いたり読んだりするのが結構好きだ。いろいろな葛藤や障害に対して人々が何を考え、どう向き合い、どんな信仰を持つのか、大変参考になるからだ。そして自分も同じような問題に直面している時などは、本当に励まされもする。

 この「証」のポイントは、神様がして下さった恵みを人に話すことで、①神様に感謝し、②神様に栄光をお返しすることにあると思う。だからどんな紆余曲折な話であっても長い話であっても、最終的には神様に到達するのが肝要であろう。
 しかし、これが案外難しい。神様に感謝し、栄光をお返ししているようでも、どうもそう聞こえないことがあるからだ。

 例えば、どこそこに留学してどれだけ大きく用いられた(目立った)かとか、都心の一等地に就職できたとか、住宅をうまく売却できて新しい住宅を買えたとか、そういう話の最後に「神様感謝します、栄光をお返しします、ハレルヤ!」と付け加えられても、どうも励まされない。むしろ「だから?」と言いたくなる。単にひがんでいるだけかもしれないけれど。

 もちろんどんな事象も、神様と全く関係ないとは言えない。けれど、それを「自慢話」と区別するのは一体何なのだろうか。

 昨年あたりから、facebookの利用者が増加から減少に転じたという。主な理由は「飽きた」ことと、「人のリア充自慢を見るのに疲れた」ということらしい。私は妙に納得した。写真付きで「こんなに充実してます」と毎日のようにアピールされてウンザリする感覚と、上記のような「証」を聞いて「だから?」と思う感覚は、そういえば似ているような気がする。

 結論。「証」をする時は、単なる自慢になっていないかどうか吟味すべし。

2014年1月14日火曜日

チャーチスクールを擁護できない理由

「チャーチスクール」というものを初めて見たとき、これはすごい活動だと正直思った。
 毎日礼拝があり、祈りや聖書を学ぶ時間があり、「神様がいる」のが当たり前の環境で、勉強に取り組める。クリスチャン子弟には最高の場所ではないかと思った。

 理念も良く思えた。「神の弟子」となり、「世界に出て行く」「優秀な」人材を育てること。同じような時期にいろいろなチャーチスクールが生まれたけれど、理念はどこも同じような感じだったと記憶している。それはまさにクリスチャン子弟が目指すべき理想像であろう。
 少人数制で、生徒一人一人のニーズに応えられるのも利点の一つだった。そしてその成果はあったと思う。普通の(公立の)学校にどうしても馴染めない子にとってチャーチスクールは救いの場となった。回復し、アイデンティティと希望を取り戻す助けとなった。

 しかし長い年月が過ぎた今、そういう成果ばかりでない結果も現れている。
 チャーチスクールの環境は、青少年が一般的に経験する事柄から、ある程度隔離されている。その程度は皆一律でないし、それが何ら問題にならないケースもあることを断っておくけれど、まず競争が少ない。あっても「全員勝利」的な競争モドキしかない。次に挫折が少ない。手ひどく挫折して苦しみ、それでも自分一人で立ち上がる以外にない、誰も助けてくれない、という状況は本当に少ない。そして厳しさが少ない。宿題をやらず、欠席がちで、どんなに赤点を取っても、最終的に泣きつけば許されるし、ほとんど留年になどならない。

 その他にも、なまじ聖書を学んでいるせいか、聖書知識は十分にある、信仰は十分に成長している、「この世」で十分に戦っていける、と思い込みやすい。しかしそれは幻想であることが多い。そもそもクリスチャンに囲われ続けて十年以上も過ごしてきたら、自分が「この世」と呼んでいる場所がどんなところなのか、どうしてわかるだろうか。

 根性論を振り回す気はないけれど、事実、自分で苦労しないとわからないことは沢山ある。苦労しすぎて心が完全に折れてしまうのは悲しいことだけれど、そういう苦労が全くないまま、温室みたいな環境で育つことの方が結果的に悲劇ではないかと私は思う。

 また今にして思うと、その理念にも問題はある。ある牧師は「チャーチスクールの子らは、神の霊によって、この世の教育を受けてきた子たちよりも優秀になる」みたいなことを自信満々に言うけれど、それは結局、「この世」の競争原理から離れられていない。「この世」の価値観から脱却すると言いながら、つまるところ同じ土俵で戦おうとしている。

 それに、仮に戦ったとしたら、勝つ見込みがどれだけあるだろうか。チャーチスクールは毎日聖書を学ぶ分、一般の学習に割く時間はどうしても少なくなる。体育の授業も少ない。教師もプロでない。それで一般の学校の生徒たちと対等以上に戦えと言うのは酷というものだ。「だから祈れ」と言うのも無責任でしかない。「その分人格的には優れている」と言うかもしれないけれど、先に書いたように、それもかなり怪しい。

 こう書くとチャーチスクールを否定しているように思えるだろうけれど、最初に書いたように、一定の成果はあると私は思っている。それに、だから公立学校の教育が一番良いのだとも言えない。それは多くの方が経験済みであろう。
 しかし、結局「この世」と張り合おうとしている時点で、チャーチスクールが「この世」に対して何ら「違い」を提示できないのも事実だと私は思っている。

追記)
 チャーチスクール擁護論者は、これに対していろいろ意見があるかもしれない。その意見は是非、親の意向に従ってチャーチスクールで長年過ごした子が一般社会に出てしばらくした時に、励ましの言葉として言ってあげたらいいと思う。

2014年1月12日日曜日

実は「どれだけ目立ったか」にしか興味のないクリスチャンたち

 ある牧師は、「牧師には自己顕示欲の強い人が多い」と言う。
 全ての牧師がそれに同意する訳ではないだろうし、それに当てはまる訳でもないと思うけれど、私は基本的にそれは的を射ていると思う。牧師は人前で話すことが多い仕事だから、自己顕示欲の強い人は向いているだろうし、そうでない人もそういう傾向を持ちやすいのではないかと思う。
 そして、それはべつに悪いことではない。性格的傾向の一つでしかない。けれど、まったく問題ないかと言うと、そうでもない。

 一年を振り返ってみて、「今年は大きく用いられた年でした」という牧師がいる。内訳を聞いてみると、いろいろな教会に呼ばれたり、出版社の取材を受けたり、連載記事を持ったり、超教派集会の委員をしたりという、対外的な活動が多かったことを「大きく用いられた」と言っているらしい。しかしそれは単に目立ったかどうかの話であって、用いられ方の大小とは違う。最近ブロガーの間で「承認欲求」という言葉が流行っている(?)ようだけれど、そういう牧師たちも、単に承認欲求が満たされたことを「大きく用いられた」と言っているだけではないか。

 SNSやブログを使っているクリスチャンらが、「今日は〇〇集会でメッセージしちゃった(^^♪」などと書いているのを見ることがある。どういうつもりか知らないけれど、それを見て気分がいい人間が本人以外にいるだろうか。

「目立つこと」=「大きく用いられること」だとしたら、キリスト教は一般社会に対して何ら「違い」を提示できない宗教遊びでしかない。牧師らの間で、誰がどれだけ目立ったかの見えない争いが繰り広げられているだけだからだ。そんなものに誰が興味を持つだろうか。少なくとも私は持たない。そして日本人の99%も持っていない。

 牧師がどれだけ目立つ活動をしたとしても、その教会の中身が何ら変わらず、その地域も何ら変わらず、その国も何も変わらないとしたら(霊的に云々という話は要らない)、牧師であるならそのことを憂うべきではないか。どれだけ目立って用いられたかを、密に喜んでいる場合ではなくて。

2014年1月11日土曜日

「終わりから始まる」という人生の見方

 縁あって、ロバート・キャンベル氏の講演「終わりから始まる物語」を聴講した。

 キャンベル氏は近代日本文学を長年研究していて、現在は東京大学大学院で教えている。日本に対する理解は、私たち日本人より深いかもしれない。同氏が今回取り上げたのは「終わりから始まる物語」、つまり結末や期限といったゴールがはじめから示されている物語についてだった。

 そういう時系列逆転の物語(同氏は『未来記』と呼ぶ)は、最近だとアメリカ映画「メメント」を思い出す人が多いかもしれない。けれど日本の近代文学にも、そういう『未来記』は多いそうだ。同氏はいくつかの文学作品を取り上げて説明していた。

 中でも「一年有半」(中江兆民著・明治34年)という作品の説明が面白かった。
 この作品は中江本人の手記で、筆者が咽頭癌で一年半の余命だと告げられたところから始まっている。時系列が逆転している訳ではないけれど、「人生の終わりが見えたところから始まる物語」である。
 興味深かったのはこれだ。「余命を告げられて、はじめて人生が有限だと実感した

 もちろん、この人生が無限だと思っている人はいないだろう。けれど、それが有限だとリアルに感じている人がどれだけいるだろうか。漠然と、「まだまだ自分の人生は終わらない」と思っている人が大多数なのではないか。私はそうだ。

 けれど中江は余命を告げられて、この一年半で何ができるかと真剣に考えた。そして手記を書き始めた。きっと告げられなかったら始めなかった。それは終わりが見えたからこその行動だろう。

 同様の例は身近なところに沢山ある。例えば学校の宿題。期限が明日か来週かで、取り組み方はえらく変わる。期限が決められないと行動に移せない、というのは人間の性質としてあるだろうと思う。

 これを人生に置き換えてみると面白いかもしれない。
 中江は余命一年半という期限を否応無しに突きつけられ、そこから何ができるかを考えるしかなかった。けれど私たち多くの人間は、たとえ余命が短いにしても(逆に長いにしても)、それを知ることはそうそうない。だから期限やゴールがわからないまま走っている、ということになる。

 これは案外恐いことだ。学校の宿題なら、いつまでにやらねばならないと考えられる。しかしゴールのわからないトラックを走っているとしたら、何を思って走ったらいいのかイマイチわからない。迷子のように迷走するだけで終わってしまうかもしれない。

 そうならない一つの案は、自分で一定のゴールを設定するという方法だ。何でもいいから生きているうちに達成したい目標を、具体的な期限付きで設定する。そしてそれを期限までに達成する。そうやって「終わりから始まる」人生を生きていくのは、案外有意義な生き方なのかもしれない。

2014年1月10日金曜日

判別不能な「預言」の氾濫と、それを信じてしまう理由

「主はこう言われる」という語り口で、「預言」が始まる。個人に対する預言、教会全体に対する預言、その地域に対する預言、国に対する預言などがある。語るのは牧師とか宣教師とか「預言の賜物があって『訓練』を受けた人」とかだ。場所は教会堂が多く、荘厳な奏楽と照明をバックに、神妙な雰囲気の中で行われたりする。

 そういう風にして語られた預言を、教会員であるクリスチャンはまず疑わない。そもそも疑うという選択肢がない。なぜなら常日頃からの牧師や教会員との人間関係・信頼関係があるからだ。そして牧師を「神の人」だと信頼していなければ、そもそも教会員になっていないからだ。そこで語られることは全て基本的に真実である、というのが彼らにとって大前提となっている。

 だから、後からそういう「預言」に関する体験談を聞いた部外者が、「なんでそんなおかしな話を信じちゃうの?」という感想を持つことがあるけれど、彼らはそういう「疑いようのない状況」を想像できないのだと思う(それはそれで無理のない話だけれど)。

 もう一つ、「預言」を疑わない理由は、その預言の内容が多くの場合抽象的過ぎることにある。聖書に登場するような詳細な預言、例えばパウロがローマでどのようにして捕えられるか、というような性質の預言でない。それよりも「主があなたを理解しておられる」「あなたの願いはあなたの想像しない形で実現する」「あなたの賜物は〇〇と××と△△だ」とかいう、何とでも解釈できそうな形で語られる。だから本当っぽく聞こえる。少なくとも間違っているとは言い切れない。
 しかしそれは、朝のニュース番組でやっている「星占い」とどう違うのだろうか。

 ある「預言」の是非を判別する方法は、それが当たったか外れたかを見る以外にない。エレミヤは大勢の偽預言者に反対するただ一人の預言者だったけれど、その勝敗(?)を決めたのもそれだった。しかし今多くの教会で語られている「預言」の中に、そういう風にハッキリ判別できるものがどれくらいあるだろうか。

 判別できない以上、それが本物とは言えない。もちろんウソとも言えない。抽象的過ぎて、その成否は永遠にわからない。そういう判別不能な「預言」に、どういう存在価値があるのだろうか。

 
 もう一つ。そういうことを考えず、ただ「預言」だからということで鵜呑みにしてしまう態度も、そういう「預言」の氾濫を助長していると私は思う。


キマジメくんのクリスチャン生活 第17話

 溝田牧師のイスラエル旅行レポートを境に、教会は様変わりした。
 日曜礼拝はこれまで以上に長時間になった。賛美と祈りだけで2時間はかかるようになり、叫んだり静まったり、笑ったり踊ったりの時間がいつまでも続くかと思われた。それはそれで幸福感を伴うもので、確かに「新しい次元」あるいは「御国の礼拝」に突入したように思えた。メッセージも今まで以上に長く、さらにその後も、賛美と祈りが延々と続く。結果、礼拝だけで4~5時間はかかるようになた。
 ミーティングの数も増えた。ミーティングと言っても溝田牧師がイスラエルとか終末とかについて延々と話す場なのだけれど、平日の夜も教会に呼ばれるようになり、キマジメくんはほぼ毎日、教会に入り浸ることになった。
 いろいろと事業を展開する計画もあるようだった。艱難時代に向けて実際に備蓄しなければならないし、避難場所を用意しなければならないし、そういういろいろの情報を世界中に発信するネット放送局も作らなければならない、というのが溝田牧師の強力な主張だった。その為いくつものミニストリーチームが作られ(ほとんどの人が複数のチームを掛け持つ状態だったけれど)、チーム単位の活動も始まっていった。そしてその全てのチームに溝田牧師が関わっていた。

 24時間365日の礼拝に向けても準備が進められた。まずは7組の少数礼拝チームが作られて、各チームが毎晩、2時間の礼拝を捧げるようになった。しばらくするともう7チーム増えて、毎晩もう2時間ずつ礼拝が捧げられるようになった。その噂は方々に広まっていき、24時間の礼拝に関心のあるクリスチャンたちが、次第に集まるようになった。教会員は半年間で倍近くに膨れ上がった。
 礼拝チームはさらに増え、結果、毎晩6時間の礼拝が捧げられるようになった。教会はいつ行っても人がいて、何かしらの活動が行われていた。溝田牧師も忙しくなったようで、ほとんど教会にいなくなった。

 キマジメくんは大学をサボりがちになった。連日遅くまで教会にいるので無理もなかった。朝どうしても起きれなくて、寝坊することが増えた。最初のうちはこれではダメだと思ったけれど、そのうち気にならなくなった。それよりも世界の終末が近いことの方が、キマジメくんにはリアルに思えた。

 ある日、大学の食堂でランチをとりながら、周囲を見回してみると、実にいろいろな学生がいるのに気付いた。熱心に勉強している人、何やら真剣に話し込んでいるグループ、バカ騒ぎしているだけの連中、スポーツマンにバンドマンに就活生、それぞれがそれぞれの生活に夢中で、何かしらの計画があるのだろうとキマジメくんは思った。しかしそれらの計画が何の役にも立たないとわかったら、彼らの失望はいかほどだろうか。そしてそうなることを事前に知っている自分は、こうしていていいのだろうか。何かすべきではないか。そう思われてならなかった。溝田牧師の言葉を思い出す。終末が近いのに、このまま大学で何年も費やし、社会に出て働きだすとしたら、結局クリスチャンとして終末に際して何も貢献できないと思う。それは良くないのではないか。

 キマジメくんは真剣に、大学を辞めることを考え出した。(続く)


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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

・この小説は不定期連載です。
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2014年1月9日木曜日

社会と隔絶してしまう「スパルタ的信仰道」

 ある人がクリスチャンになり、教会生活を通してクリスチャンとして「成長」していくと、いつしか一般社会から隔絶した生き方になってしまっている、ということがある。例えば葬式の場でお焼香を拒否したり、家族や親族の家の仏壇をなんとか処分しようと試みたり、神社仏閣を避けたり、職場のお酒の席を断り続けたり、特定の映画等を禁止したり、国歌斉唱を拒否したりとかして、周囲からいろいろな意味で、距離を置かれてしまうということがある。

 もちろん、それらの行為は、必ずしも進んでしなければならない事柄ではない。けれど、「絶対禁止」とするのはやり過ぎと思う。
 例えば実際にあった話だけれど、あるクリスチャンが、親族の葬式でのお焼香を必ずスルーしていた(本人は信仰を守る為だと純粋に思っていた)。彼は事前に両親や喪主にその旨を伝えていたのだけれど、周囲の心象は実は非常に悪かった。そして本人でなくその両親が、親族から抗議を受けていた。思いあぐねた両親は、もう葬式があっても本人を呼ばないことにした。何年か経つと、そのクリスチャンと親族らは、事実上の絶縁状態になっていた。

 これはたまたま悪い条件が重なってしまったケースだと思うけれど、かと言って「たまたま」で済ませられる話でもない。そこには人と人とを分断し、かつキリスト教の印象を悪くする根本的な問題があるような気がする。「信仰的」と言えるかどうかもかなり疑わしい。

 問題は、信仰が二元論になってしまっていることにあると思う。例えば「偶像礼拝してはならない」という命令に対して「従うか」「従わないか」の単純な二者択一しかなくて、それ以前の「何が偶像礼拝なのか」、「聖書の命令(旧約の律法と新約の命令の相違も含めて)が何を意味しているのか」、という点に関する吟味や検討が十分にされていない。そして十分に考える間もなく、偶像礼拝と思われるものを片っ端から拒否することが「信仰的」であって、それ以外にはない、という根拠が薄い割に厳しすぎる、スパルタ的信仰道を歩む他なくなってしまっている。
 聖書は「狭き門から入りなさい」と言っているけれど、「狭き門」が全て正しいとは限らない。わざわざ「狭く」て「間違っている」道を選んでしまうとしたら、それはご苦労かつご愁傷様である。

「エホバの証人」は信仰上の理由から輸血を受けないそうだ(詳しく知らないのであくまで例としてだけれど)。それを聞いて、「やり過ぎでしょ」「間違ってるよ」と思うクリスチャンは多いと思う。けれどそう言いつつ、それと同じようなことをしているクリスチャンがいるのではないかと思う。
 しかしもっと根本的かつ残念な問題は、教会でそう教えられているということにあるだろう。それに従って「成長」することが本当に成長と言えるのか、非常に怪しい。

追記)
 お焼香の例はあくまで一例であって、お焼香を拒否したら必ず親族と断絶してしまう、という話ではない。念のため。

2014年1月7日火曜日

「涙のファシズム」と化す教会

「一杯のかけそば」という話が一時期ブームになったのを覚えている。調べてみると1988年のことだった。貧しい母子と蕎麦屋の心温まる交流を描いた話で、多くの人が涙した。そのブーム自体は半年程で終わったようだけれど、作者は一躍時代の寵児となった。そして短期間にかなりのお金が集まったという(この作者はその後いろいろな疑惑が浮上して、行方をくらますこととなったけれど)。

 台湾にも同じような話があって、こちらは小説でなく実在の人物らしいけれど、感動した台湾の人々が、こぞってその人に寄付を送ったという。
 こういう、メディアを通して広まった「感動」が、その対象者を支援する動きにつながる、ということは割と多い。何年か前にも、「伊達直人」(タイガーマスクの本名)を語る匿名者から児童養護施設へ贈り物が届き、それが複数の「伊達直人」を生む「タイガーマスク現象」へ発展した。

「感動」は人を動かす。それは時代を越えた真理かもしれない。そしてそれ自体は良いことだと思う。昨年ヒットした映画「レ・ミゼラブル」も多くの感動をもたらしただろうし、主人公ジャン・バルジャンの献身的な生き方は、多くの人に良い影響をもたらしたのではないかと思う。
 時には、感動して涙を流すのも悪くないものだ。

 ところで、キリスト教会の牧師のメッセージ(説教)を聞いてみると、こういう「一杯のかけそば」的な感動話が随所に挿入されていることに気付く(もちろん全ての牧師がそうしている訳でなく、ごく一部だと思うけれど)。ひどいものになると、聖書の言葉というより、そういう感動話がメッセージの中心に据えられ、クライマックスに利用されている。聴衆を涙で震わせ、それを「聖霊様の働き」とか「神様の圧倒的な臨在」とかと言う。そしてその感動を利用し、自発的な「献身」や「奉仕」や「高額の献金」へと誘導する。彼らのような牧師にとって当てになるのは、「神の力」でなく「感動の力」である。

 そういう牧師は、時に自分自身を使って感動のネタにする。連日連夜信者の病室を見舞ったとか、何日断食したとか、これこれの必要のために私財を全部捧げたとか、そういう言わなくていいことをわざわざ公衆の面前で披露し、感動の涙を誘おうとする。そして「牧師先生がそこまでご自身を捧げているんだから、私も」という気にさせる。そういう「感動」を何でもかんでも神様に結びつけて、人をいいように動かそうとする。

 冒頭の「一杯のかけそば」のブームを終わらせたのは、タレントのタモリの一言だったという。「それは涙のファシズムだ」
 事態をうまく言い表していると思う。そしてそれは、「感動主義」の教会にも当てはまりそうな気がしてならない。

2014年1月6日月曜日

教会の中 第7話

■取材者のメモ

 以上が、A教会の信徒から聴取した内容である。これらを通して見えてきたのは、Q牧師と彼を支持する何人かの信徒グループと、教会役員たちとの対立、という図式だ。
 複数の証言から、Q牧師が何らかの重大な罪を犯したのは間違いないようだ。けれどその後の対応を巡る証言に、食い違いがみられる。Q牧師は役員らによって追放されたのか、あるいは自ら姿をくらましたのか? その答えはそのまま、どちらに非があったかを示すものでもある。
 しかし現時点で、Q牧師本人と連絡を取る方法がなく、その居場所も連絡先も知る人間がいないというのは、何を意味するのだろうか。

 Q牧師に関する評価が真っ二つに分かれているのも、非常に興味深い点だ。同じ人間と接しているはずの人々が、あるいは絶賛し、あるいは疑惑の目を向ける。どちらが真実のQ牧師の姿なのだろうか。あるいはどちらも真実なのかもしれない。人間とは複雑なものだから。
 いずれにせよ、そこまで人々の評価を二分するQ牧師という人間を、私は直に見てみたくなった。どのような人となりなのか、何をどう話す人なのか、どんな印象を与える人なのか。
 そして私は、A教会の関係者らに再度連絡をとってみた。何とかして、Q牧師の所在がつかめないものかと思ったからだ。
 結果、Q牧師の牧師仲間で、Q牧師を昔から知っているG牧師にたどり着いた。さっそくG牧師に電話でコンタクトを試みたところ、彼は非常に好意的に、私の取材を承諾してくれた。しかし最初にハッキリ言われたのは、「私はQくんの所在は知りませんよ」ということだった。彼は他県でかなり大きな教会を運営している牧師で、なかなか日程が空かないとも言っていた。私はG牧師が提案した日時に合わせて、飛行機のチケットを購入した。

■Q牧師の過去を知る、G牧師の証言

 Qくんはね、何と言うか、子どもの頃から強いカリスマ性を持った存在でしたね。いつも皆の真ん中にいて、引っ張っていくタイプでした。古い言い方だけど、「ガキ大将」と言ったらいいのかな。それに面白いところもあって、けっこう度を越えた悪さもしてね。一度なんか、教会で火事騒ぎを起こして礼拝を中断させたこともありましたっけ。本当、悪ガキでしたよ。ま、今じゃそれも笑い話ですけどね。

 私が知ってるQくんはそんな感じだったけど、お互い高校を卒業して、それから何年も会わない時期があったんですね。その間、彼にどういう変化があったのかよくわからないんですけど、彼が神学校を卒業してすぐの時かな、一度会ったことがあるんですよ。するとね、えらい見違えましたよ。まあ立派な大人になっててね、言葉遣いとか礼儀とか配慮とか、もうパッチリでしたよ。やはり、いろいろ苦労したんだろうね。牧師としても立派にやってくんだろうな~って、なんか安心したのを覚えてますね。

―それまでは安心できないものがあったのですか?

 そりゃほら、さっき言ったように、Qくんは相当な悪ガキでしたからね。彼がちょっとでも良いことをするなんて、全然想像できませんでしたから。
 でもそれは、誰しもそうでしょう。子どもの頃なんて、皆どこか不十分で、悪くて、間違いもするもんでしょう。でも皆、大人になる過程でいろいろ苦労して、立派な人物になっていくもんじゃないですか? だから子どもの頃こうだったから、とかいつまでも言うのはちょっと可哀想ってもんですよ。私だって、子どもの頃のことを指摘されたら立つ瀬がありませんからね。
(しばらく笑う)
 ただ、今回Qくんがしでかしたいろいろな事件を聞かされるとね、やっぱり、彼に対して思うところはありますよ。ああ、やっぱりあの頃のままだったのかな、とかね。

―具体的にはどういうことでしょう?

 そうねえ、やっぱり彼の地の部分は、子どもの頃の「お山の大将」のままだったのかな、と思いますね。彼は、誰の言うことも聞かない子どもでしたからね。親御さんも、彼のそういうところをきつく叱ったりしなかったと思いますよ。だから、何と言うか、ワガママなまま育ってしまった、というところもあったんだろうね。とっても残念だけど、今回彼がしでかした一連の「不祥事」は、そういう彼の人格的な問題が原因だと、私は思いますよ。

―教会役員がQ牧師を不当に追い出した、という意見もあるようですが?

 そりゃ、Q牧師からしたらそう言うしかないでしょう。そしてそんなことを言っている時点で、彼はまだしっかり悔い改めていないのだと思いますよ。真に悔い改めた人間は、すべての言い訳を捨てるはずですからね。それにちゃんと悔い改めているのなら、逆にQくん自ら、役員の方々を守るはずだからね。だって彼が任された羊、任された群れ、任された教会のはずでしょう? 真の牧者であるなら、たとえ自分に非があって退かなければならないとしても、その教会は守るはずだからね。彼が長年愛して、仕えてきた教会のはずだからね。
 でもそうできなかったってことは、やはり彼に偽りがあったということですよ。そして、それを認められないのですよ。だから姿を隠したのでしょう。だって、彼の言い分が正しいのなら、なぜ隠れる必要がありますか? なぜ堂々と主張しないのですか? それは、やましいところがあるからに他ならないと思いますよ。

―教会役員が、Q牧師を中傷するメールを世界中の関係者に送ったという意見もありますが?

 それはウソでしょう。少なくとも私のところには何も来ていませんし、知り合いのところにも、何も届いていないということでした。だいたい関係者ったって大勢いますからね、それだけ大々的に送ったのなら、何かリアクションがあって然るべきだと思いますが、何もありませんでしたからね。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年1月5日日曜日

「霊的」な「新しい真理」に惑わされていないかどうか、チェックすべきだとい う話

「終末が近い」と言うこと自体は悪いことではないけれど、あと数年とか、いつから始まるとか、そういう終末の時期を具体的に言うことは聖書的とは言い難い。けれど、それを言う牧師や宣教師が後を絶たない。最近もあるクリスチャンが、イスラエルのシャロン首相の危篤をその「始まりのしるし」だと言ったりしている。

 今までにも、そういう終末説を展開する人たちがいた。例えば数年前のある牧師の話が事実なら、現在すでに「艱難時代」に入っていなければならない。しかし、そういう預言は成就してナンボであり、外したならニセモノと判断されるべきだけれど、そういう輩に限って「霊的な次元で起こるという意味だった」などと言い訳する。「霊的」を持ち出せば何とでも言える訳で、どうにもタチが悪い。

 そういう終末話を聞いて私がまず疑問に思うのが、「その日(終末の日)は誰も知らない」とキリストご自身が言っているにも関わらず、その日がいつか「わかる」と言い切ってしまうことだ。その時点で聖書に反しているのではないか。しかし彼らは言う。「これは新しく開かれた真理なのだ」
「新しい真理」というのもまた、何とでも言えるようにする免罪符みたいな言葉だ。

 ここまでくると、そこが本当にキリスト教会かと疑わざるを得ない。もはや詐欺のレベルではないか。「終末が近いから備えが必要だ」「お金が必要だ」「○○が必要だ」ということで、無抵抗の信徒たちが搾取されるからだ。

 搾取されるだけの信仰生活に何の意味があるだろうか。というより、そもそもそれは信仰生活と言えるのだろうか。その結果、どのように神に近づき、神を知り、神に仕えたと言えるのだろうか。クリスチャンとしてどんな成長や進歩があったのだろうか。

 教会に仕えるクリスチャンであるなら、そういうことを定期的にチェックしても損にはならないだろうと私は思う。

 こう書く一方で私が思うのは、終末は確かに近づいているだろうということだ。何故ならキリストが「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ24章4節・新改訳)と警告していることが、現に起こっているからだ。

追記)
 1月11日、CNNによると、シャロン首相は死去した。

2014年1月4日土曜日

理不尽でない訓練と、理不尽な訓練。「弟子訓練」について思うこと。

 日本体育大学の伝統的パフォーマンス、「集団行動」のドキュメンタリーをテレビで観た。

「集団行動」に憧れて参加した学生たちが体験する、過酷な訓練の日々が綴られていた。どれだけ過酷かと言うと、例えば1時間行進しっぱなしで(かなりペースの速い行進だ)、ついて行けなくなったら脱落、脱落しそうになった仲間を助けようとしたら脱落、監督の方針に沿わないなら脱落、という感じだ。あの一糸乱れぬ「集団行動」が完成するには、やはりこんな苦労があったんだなと納得させられた。

 その指導方針は賛否両論あるようで、北朝鮮みたいだとか、体罰の温床になるとかいう批判がある。けれど、あくまで私個人の感想としてだけれど、それほど厳しい訓練だとは思わなかった(もちろんテレビで放映されている範囲でしか知らないけれど)。それは私が長年、聖霊派教会の牧師の「弟子訓練」を見てきたからかもしれない。

 私が「集団行動」の訓練をそれほど厳しく思わなかった理由は、そこに理不尽さを感じなかったことにあると思う。
 基本的に学生たちは、誰かに強いられてでなく、自由意思により、望んでそれに参加している。そしてそれ自体は、大学の学業とも成績とも関係がない。彼らは最初に提示された条件(訓練が最優先とか、日程を完全に合わせるとか)に承諾し、訓練が過酷であると(想像してではあるけれど)承知して、その上で「集団行動に出たい」と願っている。そこにはどんな訓練にも耐える(耐えたい)という、代償を払う意思がある。
 それに対して監督側は、「集団行動を成功させたいから、基準に達するように学生を訓練する」と明確に打ち出している。そこには学生の成長のためとかいうキレイごとはなく、あくまで集団行動の成功しかない。

 そういう合意があるのであれば、厳しく指導するのは監督の義務で、それに従うのが学生の義務、ということになると思う(と言っても、学生の側にはいつでも辞められるという保険がある)。
 そういう条件下でなされる訓練を、厳しいかどうかという尺度で判断するのは、何か違うような気がする。傍から見たら厳しいかもしれないけれど、当事者たちにとってもそうとは限らない。あるいはそういう場では、その厳しさこそが望まれるのかもしれない。

 逆に私が耐え難く思う「厳しさ」とは、上記の例とはまったく違う、「理不尽な厳しさ」だ。それは今日の教会の中で見られる。
「弟子訓練」の名のもと、牧師による強制的な訓練がなされる。そこには「弟子」の側の「選択の自由」はない。初めて行った教会で温かく迎えられ、福音を聞いて入信し、クリスチャンとして正しく歩もうと決意したところで、「さあ、弟子訓練を始めます。これは主の御心です」と言われる。異を唱える余地はない。そういうものだと思って、お願いするしかない。すぐに過重な奉仕生活に入り、失敗があれば叱責され、牧師の顔色を窺ってビクビクするようになる。その「厳しさ」こそが御心だと信じさせられ、耐え続ける。そこには根本的な合意がない。「集団行動に出たいから訓練に耐えます」というような契約条件がない。「主の御心だから耐えろ」という、一方的な命令があるだけだ。

 そうやって懸命にする奉仕が、せめて主の為になっているなら、まだ救いがあるかもしれない。あるいは自分の好きなことであるなら、救いがあるかもしれない。しかし多くの場合、牧師の自己実現に付き合わされているだけだ。そこにどんな救いがあるだろうか。教会なのに「救いがない」というのも、ヒドイ話だとは思うけれど。

 結論。「訓練」には両者の明確な合意がなければならない。権威を利用した強制、教義を曲げた誘導による「訓練」は理不尽であり、虐待でしかない。

 もし日体大の監督が、そこらの学生をつかまえて「君には集団行動をする使命がある」と決めつけて訓練に引っ張っていったとしたら、犯罪にならないだろうか。しかし残念ながら教会内では、それは犯罪にはならない。
 

2014年1月3日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第16話

 溝田牧師が、何度目かになるイスラエル旅行から帰ってきた。それからしばらくの日曜礼拝は、その話で持ちきりになるだろうと思われた。けれど今回は今まで以上に力が入っているらしく、なんと帰国当日の夜に、教会の主要なメンバーが招集された。
 キマジメくんのところにも牧師本人から連絡があった。大学の課題を終わらせねばならない大事な夜だったけれど、牧師の興奮した様子からすると、とても言い出せる雰囲気ではない。ミーティングが短時間で終わることを期待しながら、キマジメくんは時間ギリギリまで、部屋で課題に取り組むことにした。

 教会に着くと、思ったより大勢の教会員が集まっており、日曜礼拝さながらの雰囲気だった。イスラエル旅行のレポートだけかと思っていたが、賛美に始まり、長い長い祈りの時間があって、1時間以上たっただろうか、ようやくメッセージが始まった。いつも以上の熱気で、クラクラと目が回ってくる。溝田牧師や取り巻きの何人かは鬼気迫る形相で、賛美や祈りの時に何やら叫びまくっていた。よくわからないが、ただならぬ雰囲気だ。

 メッセージもまた長かった。それでも一生懸命メモっていたけれど、我慢の限界に達して時計を見ると、すでに2時間が過ぎている。それでも牧師の勢いは止みそうにない。メモを見返してみると、だいたい次のような話だった。

・イスラエルで新しい啓示を受け、真理に開かれた。
・キリストの再臨まで礼拝を続ける、いわゆる24時間365日の礼拝を主が求めておられる。
・すでに終末が近く、間もなく黙示録の時代に突入するから、その準備をしなければならない。今準備を始めなければ、来るべき大艱難時代を生き残れない。

 牧師の顔を見る限り、本気としか思えなかった。メンバーの誰もが真剣な顔で「アーメン」と言い、必死でメモを取っている。キマジメくんは最初のうち、どう反応すべきか戸惑っていたけれど、スクリーンに映し出される、環境破壊や経済危機や世界中のクリスチャンの迫害の現状など見ていると、確かに「世の終わり」が近いように思えてくる。これは大変なことになったと思った。 牧師の言う通り今年か来年が「艱難時代」の始まりだとしたら、それから7年でこの世界は終わる。人生設計そのものを見直さなければならない。いやそもそも設計などできないかもしれない。

 メッセージの後、また賛美や祈りの熱狂的な時間が始まった。椅子は全て撤去され、広くなった会堂で人々は自由に祈ったり歌ったり、祈られて倒れたり、泣き叫んだり、跪いてジッとしていたりした。キマジメくんは神様からの語りかけがないものかと、目を閉じて黙っていた。しかし特にこれといった変化はなかった。

 結局、イスラエル旅行のレポートということで始まったミーティングは大リバイバル集会みたいになって、華々しく幕を閉じた。この教会に新しい啓示が与えられ、新しい次元に入った、これはすごい、ということで皆一様に喜んでいる。歓談の時が始まって、誰も帰ろうとしない。

 牧師の結論はと言うと、この教会で特別なスタイルの礼拝を始め、順次時間を増やしていき、最終的に24時間の礼拝になるようにする、ということだった。そのため何組かのチームを作り、交代制で礼拝を捧げられる仕組みを作らなければならない。近々、その組分けが発表されるということだった。

 大学の課題がまだ終わっていないキマジメくんは帰り支度を始めた。そこへ溝田牧師が笑顔で近づいてきた。「キマジメくん、主は君のことも召しているよ。君は神様に仕えたいと思うかい?」
そう聞かれたらハイと言う他ない。キマジメくんが頷くと、牧師はこう続けた。「では、よく考えた方がいいよ。世の終わりが近づいた今、大学であと何年も時間を費やすことが、本当に主に喜ばれることなのかどうかをね」
 つまり大学を中退して「献身」すべきでは、という話らしかった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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「信仰の奥義」というより、ただの自己満足

 雇用形態の話でなく、「仕事のやり方」は人によっていろいろあると思う。
 例えば私が携わってきた対人援助的な仕事で言うと、被援助者に至れり尽くせりの手厚い援助をしたいという人もいれば、いつも教え指導している人もいるし、どちらかというと放置というか、手綱を長くして見ている人もいる。それ以外にも会話重視とか、観察重視とか、活動重視とかの違いもあるし、援助者が醸し出す雰囲気みたいなものも皆違う。そういういろいろを含めて、「対人援助」の「やり方」というのは、人によっていろいろだと思う。
 もちろん基礎となる部分は皆同じだろうし、見た目には、皆同じようなことをするはずだ。けれど実際にそれをやるとなると、どうしてもその人のカラーが出る。結果、同じはずなのに全然違う、ということもある。

 それは基本的に悪いことではない。その人の持ち味が発揮されるのであれば、多様性が生まれていろいろ良い結果が生まれるのではないかと思う。しかし残念ながら、そういう結果はなかなか見られない。

 私が見ていて痛々しく思う援助者というのは、持論が強すぎるというか、押し付けが強すぎるというか、そういうやり方を自信満々に続けている人たちだ。被援助者が迷惑がっていることにも気づかない。被援助者の方にはそれでも感謝の気持ちもあったりするから、なかなか不満も言えない(もちろんそうでない人もいる)。そこから悪循環が生まれる。

 もちろん、援助者は自信をもって援助すべきだろう。けれど、それが一方的になっていないか、独りよがりになっていないか、というようなことが吟味できなければ、プロとは言い難いのではないかと私は思う。それは単なる自己満足の世界だろう。

 キリスト教会にも、この自己満足の世界の住人がいるように思う。クリスチャンならこうすべきだ、教会員ならこうすべきだ、異言とはこういうものだ、夢の解き明かしとはこういうものだ、という持論を展開するだけで、客観的な見方や考え方をハナから否定し、よく吟味する時間も与えない。異を唱えようものなら、不信仰呼ばわりか悪魔呼ばわりして済ませる。だから言われた方は、それに従う他ない。

 例えば、どうでもいいような細かい例だけれど、聖書の人物の名前が何かの数字を意味していて、その数字が何か別の意味を持っているらしく、これはすごい信仰の奥義だ、と主張する人がいる。けれど聞いている方は「だから何?」としか言えない。それが奥義というなら、キリスト教って大したことなんじゃない? と思われかねない。
 それは信仰の奥義というより、ただの自己満足だろうと、へそ曲がりな私は思ってしまう。

2014年1月1日水曜日

キリスト教関係の活動を辞めた、2013年という年を振り返ってみる

 もう新年を迎えてしまったけれど、元旦の今日、昨年(2013年)を振り返ってみたい。

 2013年、私にとって最も大きかったのは、キリスト教関係の(日曜礼拝以外の)活動を、完全に辞めたことだと思う。
 といっても辞めたくて辞めた訳ではなかったけれど、仮に続けられたとして、続けたかどうかはかなり怪しい。結局のところ、辞めることが自分にとって一番良かったのだろうと今は思っている。
 人によっては、それは裏切りだとか背信だとかいう話になるかもしれない。まあ意見は人それぞれあるだろう。けれどいわゆる宗教というものは、そもそも強制されてするものではないから、「したくないからしない」でもいいと思う。

 と言っても、私の場合はクリスチャンを辞めましたという話ではない。
 こういうブログを書いていると、「さっさと帰依したら?」みたいなことを言われて、それはそれで面白い意見だと思うけれど、残念ながら賛同はできない。神様の存在を否定しようとは思わないし、日曜礼拝だけは守りたいと思っている。

 もっとも、このブログでキリスト教会や信仰に関する疑問を書き連ねるということ自体が、もしかしたらキリスト教関係の活動なのかもしれないけれど。

 もう一つ大きかったのは、仕事のことだと思う。結局今も非常勤という働き方をしているけれど、キリスト教関係の活動をフルタイムでするより、経済的にははるかに安定している。正社員になるかどうか、更に良い働き方があるかどうか、は今年取り組むべき課題としたい。
 以前は教会の為、あるいはその関連の何かの為に働くことが信仰的で、クリスチャンとして正しいと思っていたけれど、「そうでもないな」と考え直すようになった。もちろん教会で働くことだって良いことだと思うけれど、それだけが唯一絶対の正しさかというと、そうでもないなという話だ。

 もう一つ、2013年はよく旅行をした年だった。教会員時代からすると考えられないくらいのペースで、あちこち旅行に行くことができて、良い思い出になっている。
 そういえば教会員時代もかなり方々に行ったけれど、それらは全て奉仕であり、自分のペースで何かができる旅ではなかった。

 総じて言うと、2013年というのは、自分のペースを取り戻す為の1年だったように思う。それがクリスチャンとしてどうかという判断はよくわからない。けれど他の選択肢があったかというと、なかったのではないかと思う。
 そして今年は、よく学ぶ1年にしたいと思っている。一年の計は元旦にあり、と言うけれど、有言不実行だと困るので、どんな勉強をするかは伏せておくことにする。