社会と隔絶してしまう「スパルタ的信仰道」

2014年1月9日木曜日

キリスト教信仰

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 ある人がクリスチャンになり、教会生活を通してクリスチャンとして「成長」していくと、いつしか一般社会から隔絶した生き方になってしまっている、ということがある。例えば葬式の場でお焼香を拒否したり、家族や親族の家の仏壇をなんとか処分しようと試みたり、神社仏閣を避けたり、職場のお酒の席を断り続けたり、特定の映画等を禁止したり、国歌斉唱を拒否したりとかして、周囲からいろいろな意味で、距離を置かれてしまうということがある。

 もちろん、それらの行為は、必ずしも進んでしなければならない事柄ではない。けれど、「絶対禁止」とするのはやり過ぎと思う。
 例えば実際にあった話だけれど、あるクリスチャンが、親族の葬式でのお焼香を必ずスルーしていた(本人は信仰を守る為だと純粋に思っていた)。彼は事前に両親や喪主にその旨を伝えていたのだけれど、周囲の心象は実は非常に悪かった。そして本人でなくその両親が、親族から抗議を受けていた。思いあぐねた両親は、もう葬式があっても本人を呼ばないことにした。何年か経つと、そのクリスチャンと親族らは、事実上の絶縁状態になっていた。

 これはたまたま悪い条件が重なってしまったケースだと思うけれど、かと言って「たまたま」で済ませられる話でもない。そこには人と人とを分断し、かつキリスト教の印象を悪くする根本的な問題があるような気がする。「信仰的」と言えるかどうかもかなり疑わしい。

 問題は、信仰が二元論になってしまっていることにあると思う。例えば「偶像礼拝してはならない」という命令に対して「従うか」「従わないか」の単純な二者択一しかなくて、それ以前の「何が偶像礼拝なのか」、「聖書の命令(旧約の律法と新約の命令の相違も含めて)が何を意味しているのか」、という点に関する吟味や検討が十分にされていない。そして十分に考える間もなく、偶像礼拝と思われるものを片っ端から拒否することが「信仰的」であって、それ以外にはない、という根拠が薄い割に厳しすぎる、スパルタ的信仰道を歩む他なくなってしまっている。
 聖書は「狭き門から入りなさい」と言っているけれど、「狭き門」が全て正しいとは限らない。わざわざ「狭く」て「間違っている」道を選んでしまうとしたら、それはご苦労かつご愁傷様である。

「エホバの証人」は信仰上の理由から輸血を受けないそうだ(詳しく知らないのであくまで例としてだけれど)。それを聞いて、「やり過ぎでしょ」「間違ってるよ」と思うクリスチャンは多いと思う。けれどそう言いつつ、それと同じようなことをしているクリスチャンがいるのではないかと思う。
 しかしもっと根本的かつ残念な問題は、教会でそう教えられているということにあるだろう。それに従って「成長」することが本当に成長と言えるのか、非常に怪しい。

追記)
 お焼香の例はあくまで一例であって、お焼香を拒否したら必ず親族と断絶してしまう、という話ではない。念のため。

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