「信仰の奥義」というより、ただの自己満足

2014年1月3日金曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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 雇用形態の話でなく、「仕事のやり方」は人によっていろいろあると思う。
 例えば私が携わってきた対人援助的な仕事で言うと、被援助者に至れり尽くせりの手厚い援助をしたいという人もいれば、いつも教え指導している人もいるし、どちらかというと放置というか、手綱を長くして見ている人もいる。それ以外にも会話重視とか、観察重視とか、活動重視とかの違いもあるし、援助者が醸し出す雰囲気みたいなものも皆違う。そういういろいろを含めて、「対人援助」の「やり方」というのは、人によっていろいろだと思う。
 もちろん基礎となる部分は皆同じだろうし、見た目には、皆同じようなことをするはずだ。けれど実際にそれをやるとなると、どうしてもその人のカラーが出る。結果、同じはずなのに全然違う、ということもある。

 それは基本的に悪いことではない。その人の持ち味が発揮されるのであれば、多様性が生まれていろいろ良い結果が生まれるのではないかと思う。しかし残念ながら、そういう結果はなかなか見られない。

 私が見ていて痛々しく思う援助者というのは、持論が強すぎるというか、押し付けが強すぎるというか、そういうやり方を自信満々に続けている人たちだ。被援助者が迷惑がっていることにも気づかない。被援助者の方にはそれでも感謝の気持ちもあったりするから、なかなか不満も言えない(もちろんそうでない人もいる)。そこから悪循環が生まれる。

 もちろん、援助者は自信をもって援助すべきだろう。けれど、それが一方的になっていないか、独りよがりになっていないか、というようなことが吟味できなければ、プロとは言い難いのではないかと私は思う。それは単なる自己満足の世界だろう。

 キリスト教会にも、この自己満足の世界の住人がいるように思う。クリスチャンならこうすべきだ、教会員ならこうすべきだ、異言とはこういうものだ、夢の解き明かしとはこういうものだ、という持論を展開するだけで、客観的な見方や考え方をハナから否定し、よく吟味する時間も与えない。異を唱えようものなら、不信仰呼ばわりか悪魔呼ばわりして済ませる。だから言われた方は、それに従う他ない。

 例えば、どうでもいいような細かい例だけれど、聖書の人物の名前が何かの数字を意味していて、その数字が何か別の意味を持っているらしく、これはすごい信仰の奥義だ、と主張する人がいる。けれど聞いている方は「だから何?」としか言えない。それが奥義というなら、キリスト教って大したことなんじゃない? と思われかねない。
 それは信仰の奥義というより、ただの自己満足だろうと、へそ曲がりな私は思ってしまう。

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