「これは主の戦略だ」
牧師は自信満々に、あるいは使命に燃えた様子でそう語る。ソファにふんぞりかえり、組んだ足の先でテーブルの端をコンコン蹴りながら。
誰も何も言わず、「牧師先生」の次の言葉を待っている。
「私が祈っていると、」牧師は怖い顔のまま続ける。「主が幻の中で、私にはっきりと示された。それは強烈な印象だった。『暗闇の中で苦しんでいる人々を助け出せ』と。そして同時に、その為の戦略が私に示された。今からそれを語る。だからこれは、天の御国の戦略会議だ」
皆が黙っていると、牧師は突然怒りだす。「なぜ返事がない? アーメンじゃないのか? 主の会議に連なる者に、そんな態度がふさわしいと思うか!」
するとあちこちから「アーメン」と、恐る恐る声が上がる。
牧師は威嚇するように見回し、また話の続きに戻る。
という訳で「主の戦略」とやらが語られる。あるときは「若者を勝ち取れ」、あるときは「この地域を勝ち取れ」、またあるときは「文化を勝ち取れ」と。そしてそういう方向性に合わせて、「プレイヤーウォーク」や「断食」や「長時間の祈り」などの方法論が取り入れられ、最終的には何かのイベントが開催されることになる。
そのイベントに向けた準備が、教会全体で始まる。その中心にいるのはいつも「牧師先生」で、これはダメだ、あれはダメだ、こうしなければならない、と細かく指示を出す。そしてそれらは全て、「私個人の願いじゃない、主の願いだ。だから全ての不都合を捧げてそれに従わなければならない」という。
それに沿わない者、うまくできない者は「主にあって」罵倒され、悔い改めさせられる。周りの者はそれを見て、「逆らってはいけない、失敗してはいけない」と思い知らされる。
それに耐えられる者は、賞賛されると同時に、更なる奉仕を任せられる。そしていつのまにか、出口のない「奉仕迷宮」に迷い込んでいく。
そうして一つのイベントが終わると、休む間もなく、また「主の戦略会議」が開かれ、次のイベントに向けた準備が始まっていく。そういうことが何年も何十年も続いていく教会がある。
そういう「主の戦略」が功を奏し、何かが確実に改善し、拡大し、成長し、良くなっていくのなら、それらの努力にも意味はあると言えるかもしれない。しかしそれらの効果はいつも限定的だったり、短期的だったり、何かを犠牲にすることだったりする。教会に人が増えても、同じくらい人が出て行く。何かの設備が整っても、その背後で多くの信徒が犠牲になっている。
そういうのが「主の戦略」であり「祝福」であるなら、神の国とはずいぶん貧しいところだと言わざるを得ない。
そういう牧師は伝家の宝刀として「霊の次元で大きく変化した。それは必ず現実になる」などと言うが、霊的にどうなろうと空腹は満たされないし、現実化するのを待っていたら死んでしまう。
「牧師先生」がソファにふんぞりかえって「これは主の戦略だ」と主張している時、当の主ご自身がそれを聞いてどう思われているのか、是非とも聞いてみたいものだ。
預言、幻は吟味するものですよね。上意下達方式で、即座にアーメンを求められるものではありません。こういう態度のリーダーは既に「終わっている」のです。聖書の法則に立っていませんから。
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