「終わりから始まる」という人生の見方

2014年1月11日土曜日

生き方について思うこと

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 縁あって、ロバート・キャンベル氏の講演「終わりから始まる物語」を聴講した。

 キャンベル氏は近代日本文学を長年研究していて、現在は東京大学大学院で教えている。日本に対する理解は、私たち日本人より深いかもしれない。同氏が今回取り上げたのは「終わりから始まる物語」、つまり結末や期限といったゴールがはじめから示されている物語についてだった。

 そういう時系列逆転の物語(同氏は『未来記』と呼ぶ)は、最近だとアメリカ映画「メメント」を思い出す人が多いかもしれない。けれど日本の近代文学にも、そういう『未来記』は多いそうだ。同氏はいくつかの文学作品を取り上げて説明していた。

 中でも「一年有半」(中江兆民著・明治34年)という作品の説明が面白かった。
 この作品は中江本人の手記で、筆者が咽頭癌で一年半の余命だと告げられたところから始まっている。時系列が逆転している訳ではないけれど、「人生の終わりが見えたところから始まる物語」である。
 興味深かったのはこれだ。「余命を告げられて、はじめて人生が有限だと実感した

 もちろん、この人生が無限だと思っている人はいないだろう。けれど、それが有限だとリアルに感じている人がどれだけいるだろうか。漠然と、「まだまだ自分の人生は終わらない」と思っている人が大多数なのではないか。私はそうだ。

 けれど中江は余命を告げられて、この一年半で何ができるかと真剣に考えた。そして手記を書き始めた。きっと告げられなかったら始めなかった。それは終わりが見えたからこその行動だろう。

 同様の例は身近なところに沢山ある。例えば学校の宿題。期限が明日か来週かで、取り組み方はえらく変わる。期限が決められないと行動に移せない、というのは人間の性質としてあるだろうと思う。

 これを人生に置き換えてみると面白いかもしれない。
 中江は余命一年半という期限を否応無しに突きつけられ、そこから何ができるかを考えるしかなかった。けれど私たち多くの人間は、たとえ余命が短いにしても(逆に長いにしても)、それを知ることはそうそうない。だから期限やゴールがわからないまま走っている、ということになる。

 これは案外恐いことだ。学校の宿題なら、いつまでにやらねばならないと考えられる。しかしゴールのわからないトラックを走っているとしたら、何を思って走ったらいいのかイマイチわからない。迷子のように迷走するだけで終わってしまうかもしれない。

 そうならない一つの案は、自分で一定のゴールを設定するという方法だ。何でもいいから生きているうちに達成したい目標を、具体的な期限付きで設定する。そしてそれを期限までに達成する。そうやって「終わりから始まる」人生を生きていくのは、案外有意義な生き方なのかもしれない。

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