理不尽でない訓練と、理不尽な訓練。「弟子訓練」について思うこと。

2014年1月4日土曜日

キリスト教信仰

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 日本体育大学の伝統的パフォーマンス、「集団行動」のドキュメンタリーをテレビで観た。

「集団行動」に憧れて参加した学生たちが体験する、過酷な訓練の日々が綴られていた。どれだけ過酷かと言うと、例えば1時間行進しっぱなしで(かなりペースの速い行進だ)、ついて行けなくなったら脱落、脱落しそうになった仲間を助けようとしたら脱落、監督の方針に沿わないなら脱落、という感じだ。あの一糸乱れぬ「集団行動」が完成するには、やはりこんな苦労があったんだなと納得させられた。

 その指導方針は賛否両論あるようで、北朝鮮みたいだとか、体罰の温床になるとかいう批判がある。けれど、あくまで私個人の感想としてだけれど、それほど厳しい訓練だとは思わなかった(もちろんテレビで放映されている範囲でしか知らないけれど)。それは私が長年、聖霊派教会の牧師の「弟子訓練」を見てきたからかもしれない。

 私が「集団行動」の訓練をそれほど厳しく思わなかった理由は、そこに理不尽さを感じなかったことにあると思う。
 基本的に学生たちは、誰かに強いられてでなく、自由意思により、望んでそれに参加している。そしてそれ自体は、大学の学業とも成績とも関係がない。彼らは最初に提示された条件(訓練が最優先とか、日程を完全に合わせるとか)に承諾し、訓練が過酷であると(想像してではあるけれど)承知して、その上で「集団行動に出たい」と願っている。そこにはどんな訓練にも耐える(耐えたい)という、代償を払う意思がある。
 それに対して監督側は、「集団行動を成功させたいから、基準に達するように学生を訓練する」と明確に打ち出している。そこには学生の成長のためとかいうキレイごとはなく、あくまで集団行動の成功しかない。

 そういう合意があるのであれば、厳しく指導するのは監督の義務で、それに従うのが学生の義務、ということになると思う(と言っても、学生の側にはいつでも辞められるという保険がある)。
 そういう条件下でなされる訓練を、厳しいかどうかという尺度で判断するのは、何か違うような気がする。傍から見たら厳しいかもしれないけれど、当事者たちにとってもそうとは限らない。あるいはそういう場では、その厳しさこそが望まれるのかもしれない。

 逆に私が耐え難く思う「厳しさ」とは、上記の例とはまったく違う、「理不尽な厳しさ」だ。それは今日の教会の中で見られる。
「弟子訓練」の名のもと、牧師による強制的な訓練がなされる。そこには「弟子」の側の「選択の自由」はない。初めて行った教会で温かく迎えられ、福音を聞いて入信し、クリスチャンとして正しく歩もうと決意したところで、「さあ、弟子訓練を始めます。これは主の御心です」と言われる。異を唱える余地はない。そういうものだと思って、お願いするしかない。すぐに過重な奉仕生活に入り、失敗があれば叱責され、牧師の顔色を窺ってビクビクするようになる。その「厳しさ」こそが御心だと信じさせられ、耐え続ける。そこには根本的な合意がない。「集団行動に出たいから訓練に耐えます」というような契約条件がない。「主の御心だから耐えろ」という、一方的な命令があるだけだ。

 そうやって懸命にする奉仕が、せめて主の為になっているなら、まだ救いがあるかもしれない。あるいは自分の好きなことであるなら、救いがあるかもしれない。しかし多くの場合、牧師の自己実現に付き合わされているだけだ。そこにどんな救いがあるだろうか。教会なのに「救いがない」というのも、ヒドイ話だとは思うけれど。

 結論。「訓練」には両者の明確な合意がなければならない。権威を利用した強制、教義を曲げた誘導による「訓練」は理不尽であり、虐待でしかない。

 もし日体大の監督が、そこらの学生をつかまえて「君には集団行動をする使命がある」と決めつけて訓練に引っ張っていったとしたら、犯罪にならないだろうか。しかし残念ながら教会内では、それは犯罪にはならない。
 

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