判別不能な「預言」の氾濫と、それを信じてしまう理由

2014年1月10日金曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
「主はこう言われる」という語り口で、「預言」が始まる。個人に対する預言、教会全体に対する預言、その地域に対する預言、国に対する預言などがある。語るのは牧師とか宣教師とか「預言の賜物があって『訓練』を受けた人」とかだ。場所は教会堂が多く、荘厳な奏楽と照明をバックに、神妙な雰囲気の中で行われたりする。

 そういう風にして語られた預言を、教会員であるクリスチャンはまず疑わない。そもそも疑うという選択肢がない。なぜなら常日頃からの牧師や教会員との人間関係・信頼関係があるからだ。そして牧師を「神の人」だと信頼していなければ、そもそも教会員になっていないからだ。そこで語られることは全て基本的に真実である、というのが彼らにとって大前提となっている。

 だから、後からそういう「預言」に関する体験談を聞いた部外者が、「なんでそんなおかしな話を信じちゃうの?」という感想を持つことがあるけれど、彼らはそういう「疑いようのない状況」を想像できないのだと思う(それはそれで無理のない話だけれど)。

 もう一つ、「預言」を疑わない理由は、その預言の内容が多くの場合抽象的過ぎることにある。聖書に登場するような詳細な預言、例えばパウロがローマでどのようにして捕えられるか、というような性質の預言でない。それよりも「主があなたを理解しておられる」「あなたの願いはあなたの想像しない形で実現する」「あなたの賜物は〇〇と××と△△だ」とかいう、何とでも解釈できそうな形で語られる。だから本当っぽく聞こえる。少なくとも間違っているとは言い切れない。
 しかしそれは、朝のニュース番組でやっている「星占い」とどう違うのだろうか。

 ある「預言」の是非を判別する方法は、それが当たったか外れたかを見る以外にない。エレミヤは大勢の偽預言者に反対するただ一人の預言者だったけれど、その勝敗(?)を決めたのもそれだった。しかし今多くの教会で語られている「預言」の中に、そういう風にハッキリ判別できるものがどれくらいあるだろうか。

 判別できない以上、それが本物とは言えない。もちろんウソとも言えない。抽象的過ぎて、その成否は永遠にわからない。そういう判別不能な「預言」に、どういう存在価値があるのだろうか。

 
 もう一つ。そういうことを考えず、ただ「預言」だからということで鵜呑みにしてしまう態度も、そういう「預言」の氾濫を助長していると私は思う。


QooQ