腹を割って話せなければ真実な関係ではない、という偽り

2014年1月18日土曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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信徒どうしの人間関係に、深く関わろうとする牧師がいる。
たとえば不仲な信徒たちの仲介を図り、衝突した信徒たちを和解させようとする。そしてクリスチャンは神の前にこうあるべきだ、人間関係はこうあるべきだ、というようなことを指導する。

その指導の是非を問おうとしたら、どこまでが牧師の役割なのか、あるいは何が教会の目的なのか、というような話になる。そしてそれが牧師の好意になるのか余計なお世話になるのかは、牧師も教会も状況も多様だから一括りにできない。けれど一つはっきり言えるのは、その手の「牧師の介入」が過剰になっているケースがあるということだ。

たとえば信徒Aと信徒Bがいて、2人はべつに不仲ではないけれど、どちらかと言うと相性は良くない、というような関係はどこにでもあるだろう。両者とも何となくそのことがわかっているから、互いにあえて近づこうとしないし、教会で会っても挨拶するくらいだ。2人は意識してそういう一定の距離を置いた関係を保っているのだけれど、介入過剰な牧師はそれを黙っていない。「それは表面的な関係だ」「真実な関係ではない」「キリストの愛で愛し合っていない」というような理由をつけて、両者を呼んで「腹を割った話」をさせようとする。

しかし腹を割れと言われても、本人たちにはそもそも割るべき腹がない。互いに関心がなかったのだから当然だ。けれど牧師に「もっと積極的に愛し合い、関わり合うことがキリストの愛の命令だ」と言われたら、確かに自分たちの姿はそれに達していない。結果、「もっと積極的に関わり合う」関係になろうとして、いろいろ話したくないことまで話させられ、無理をすることになる。

「互いに愛し合う」というのは確かにキリストの命令だけれど、それは全ての人間と良好な関係を持てという意味ではないだろう。よっぽどの成人君主ならそれも可能かもしれないけれど、普通に考えたら無理だからだ。なのに全ての人間関係を「良い」か「悪い」かの二元論に落とし込み、前者でなければクリスチャンとして失格だ、とするのは横暴すぎるのではないか。

人間、どうしたって相性の悪い人間というのはいる。そしてそれは相手が悪いか自分が悪いかという種類の話ではない。どちらも悪くない。単に自分とは違う、というだけのことだ。

そういう違いがあるが故、相手と一定の距離を置こうとすることは、人間関係を壊すことにはならないだろう。かえって相手を尊重し、共存する道を選んだということになると思う。
むしろ、介入過剰な牧師の指導に従って、自分にも相手にも無理を強いて「良好な」人間関係を保とうとすることの方が、よっぽど「表面的」で、「真実でない」関係ではないだろうかと私は思う。

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