大きな集会で、ゲストスピーカーとかゲスト講師とか呼ばれる「リバイバリスト」たちが、壇上でひざまずいて祈る場面がある。突然悔い改めを促されたとか、ひざまずかずにいられなかったとか、あまりの「臨在」に立っていられなかったとか、理由はいろいろだ。
そういうのを見て感動した参加者たちが「やはりあの講師は素晴らしい神の器だ」とか評するので、かの「リバイバリスト」たちは、次もどこかに呼ばれることになる。そしてどこかの壇上でも同じようにひざまずき、自身の謙遜さをアピールすることになる。
壇上で突然ひざまずいて祈らなければならなくなるという状況は、なくはないだろう。しかし衆人環視であることや、講師としての責任を考慮するならば、それは控えるべきだ。なぜなら聖書は明確に、「人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのは偽善者だ」(マタイ6章5節・新改訳)と言っているからだ。むしろ、祈るなら誰もいないところで祈れ、と言っている。
だから数百人数千人が注目する壇上でわざわざひざまずき、涙ながらに天を仰いで祈るのは、私にはパフォーマンス目当ての偽善にしか見えない。それもかなり滑稽な偽善に。
しかしそういう偽善を見て感動してしまうクリスチャンが多い。そして偽善者らを称賛する。しかし聖書はそういう偽善者についても明確に言っている。「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(マタイ6章5節・新改訳)
舞台上の偽善もさることなから、偽善とは少し違うかもしれませんが、主はこんなことをして下さる主は素晴らしいと主を褒め称えながら、実はその心に中に自分を通してその御業がされている、だから自分が素晴らしいと自分を高く掲げているのではないかーと何度もその人のメッセージを聞いていましたらそのような疑問にあたりました。その人は自分では気付いていないかもしれませんが、大教会の牧師への嫉妬なのどか心の片隅にあると、微妙な心の歪みがメッセージにも反映されて、背後には信徒に従うよう怖れさせコントロールさせるものが働いていると感じました。カルト化した教会の牧師は自分で気が付かず、信徒にそのことを教えてもらっても心に暗闇を持っているので耳が開かれないのです。哀れなものです。けれど聞かされる私達は更に哀れなものです。知らず知らずに強要されているのですから。主よ、哀れんで下さい。
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