壇上でひざまずく、「謙遜」というパフォーマンス

2014年1月25日土曜日

キリスト教信仰

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 大きな集会で、ゲストスピーカーとかゲスト講師とか呼ばれる「リバイバリスト」たちが、壇上でひざまずいて祈る場面がある。突然悔い改めを促されたとか、ひざまずかずにいられなかったとか、あまりの「臨在」に立っていられなかったとか、理由はいろいろだ。

 そういうのを見て感動した参加者たちが「やはりあの講師は素晴らしい神の器だ」とか評するので、かの「リバイバリスト」たちは、次もどこかに呼ばれることになる。そしてどこかの壇上でも同じようにひざまずき、自身の謙遜さをアピールすることになる。

 壇上で突然ひざまずいて祈らなければならなくなるという状況は、なくはないだろう。しかし衆人環視であることや、講師としての責任を考慮するならば、それは控えるべきだ。なぜなら聖書は明確に、「人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのは偽善者だ」(マタイ6章5節・新改訳)と言っているからだ。むしろ、祈るなら誰もいないところで祈れ、と言っている。
 だから数百人数千人が注目する壇上でわざわざひざまずき、涙ながらに天を仰いで祈るのは、私にはパフォーマンス目当ての偽善にしか見えない。それもかなり滑稽な偽善に。

 しかしそういう偽善を見て感動してしまうクリスチャンが多い。そして偽善者らを称賛する。しかし聖書はそういう偽善者についても明確に言っている。「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(マタイ6章5節・新改訳)

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