「神がこんな自分をリーダーにした」のでなく、「ただ自分がリーダーでいたい だけ」

2014年1月30日木曜日

キリスト教信仰

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 人格的欠損は誰にでもある。もちろん完璧な人はいない。しかし人がある立場に就こうとする場合、それに必要な人格的基準というのは確かにある。そしてその基準を満たすと他者から評価されなければ、それに就くことはできない。

 例えば「嘘つき」で「サボり魔」だと社内で広く評判になっている人物が、主任や課長に昇進するということはまず間違いなくない。新約聖書の第一テモテも、「監督」や「執事」の職に就くにはこれこれの基準を満たしていなければダメだと言っている。だからこの原則に基づくなら、今日の教会の牧師とか役員とか執事とかリーダーとか呼ばれる人物に、おかしな人間はいないということになる。

 しかし残念なことに上記の聖書箇所は、「誰が」「どのようにして」その人格基準を判定するか、という方法が書かれていない。そして今日のキリスト教界において、リーダー的立場に就く人間の人格を判定するルールブックみたいなものは、おそらく存在していない。もしかしたら個々の教会や団体で独自の決め事はあるかもしれないけれど、多くの教会は「主任牧師」の一存で決まるか、あるいは審査ナシの不戦勝みたいな形で決まる。

 結果、「この人は人格的にどうなんだ」と思わずにいられない人物がリーダーをやっている教会が生まれる。許容範囲をはるかに超えた人格的欠損が見られるのに、リーダーとして教会を支配し続け、信徒も誰も何も言わない(言えない)。

 そういうリーダーが、自身の人格的欠損を誤魔化せないと知ってか、こんなことを言ったりする。
「自分は人格的にリーダーに向いていないだろう。しかし、神様がこんな私をリーダーとして立てたんだから仕方がない

 これを聞いて、謙遜だなとか、じゃあ仕方ないとか思うだろうか。私は全然そう思わない。その言い分が、神が人間に自由意思を与えたことを否定しているからだ。まるで神様が一方的なお方で、人の意志に関係なく仕事に就かせ、無理矢理働かせているみたいに聞こえる。自分がリーダーであることを神のせいにし、だから人格的に不十分でも仕方がない、失敗しても仕方がない、何か問題が起こっても神の責任だ、と言っているだけだ。本当は自分がリーダーでいたいだけで、誰かの下になんか付きたくないと思っていて、しかし自分の人格には問題があると薄々わかっている。それで、神をいいように利用しているのだ。

 本当に人格に問題があるなら、潔くリーダーを降りればいい。誰も止めはしない。止めているのは自分のプライドや野望だけだ。そして本当に潔く降りられるなら、むしろ人格的問題はさほど重くないと言える。

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